コロナ感染拡大防止策として人の移動の自由を制限すること(6)

《コロナ感染防止対策によって制限される私権(自由権)とは》

 さて、コロナ感染防止のために私権を制限する、具体的には人の移動の自由を制限するということは何を意味するのだろうか。あらためて考えてみたい。中学校の社会・公民では、人が自由に移動できる権利、つまり自由権は、平等権社会権と共に国民の基本的権利を構成するものと教えられており、国家から制約も強制もされず、自由に物事を考え、自由に行動できる権利のことをいう。自由権はさらに、精神的自由権(どのような考えを持っていても、少なくとも法律では、その考えを持つだけでは罰しない) 経済的自由権(職業選択の自由、居住・移転の自由、財産権を含む)、身体的自由権(犯罪をして逮捕されるときなどをのぞけば、体を不当に拘束されない、という権利の3つに分けられ、この3つの中では精神的自由権が優位的な権利であるとされている。今回のコロナウイルス感染抑制で制限された移動の自由、つまり、居住移転の自由は、まず経済的自由権に分類されるが、もちろん、身体的自由権あるいは精神的自由権にも関わっている。

 自由権は、欧州において18~19世紀にかけて国家の強い弾圧に対して起こった市民革命によって獲得された歴史を持つ。近代以前の領民的」思想、つまり、生産者である人民を自領内に確保することを目的として人民の職業や住居を身分制的に固定する思想から脱した居住移転の自由や職業選択の自由は、前近代的身分制的拘束からの解放であり、また、人の自由な移動の確保によって自由な労働者の形成が図られたことが近代資本主義社会の前提条件ともなった。つまり、人の自由な移動は資本主義経済と強く結びついているわけだ。

 自由権を含む国民の権利は民主主義体制国家であればすべての国において、義務を伴わないものとして憲法で保障されている。                               
 日本でも、日本国憲法第22条第1項において、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」とされている。この第22条によって保障される居住移転の自由については、国内において住所又は居所を定めそれを移転する自由に限定されるのか、旅行の自由のように人間の移動の自由を含むかだが、今日では居住移転の自由は多面的・複合的な性格を有する権利として理解されている。

 一方で、自由権を含めた人権は「公共の福祉に反しない限り」認められるもので、制限がある。近代の憲法は、国家権力に歯止めをかけ、国民の人権を守るために生まれたので、憲法は「人権保障の体系」であるとみなされている。ここで人権を保障される国民はあくまでも個人として尊重されるべきで、このことを憲法は「すべて国民は個人として尊重される」と規定している(憲法13条)。「個人の尊重」こそが憲法の基本的な価値であり、人権の発想はこのように国民を一人ひとりの個人ととらえることから始まる。このように「個人の尊重」を根本価値とする人権だが、絶対に制限されないわけではない。このことを憲法は「公共の福祉」という言葉を使って表現している。12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。また13条の後段にも、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とある。

 「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべるかだが、「社会の秩序や公共的な価値のために、個人は我儘を言うべきではない」あるいは「多数の人の利益になるときには、少数の人は我慢すべきだ」という意味だと思われてはいないか。先ほど述べた調査では、日本の対象者は「ウイルス拡散防止に役立つならば、自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない」との質問を「多数の人の利益のために我慢すべきだ」と聞かれていると思ったのではないだろうか。

「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまい、「個人が最高」とする個人尊重の理念に反する。個人が最高の価値であるならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければならない。教科書的表現を借りれば、つまり個人の人権を制限する根拠は別の個人の人権保障にある。つまり、どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っている。すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを憲法は「公共の福祉」と呼ぶので、けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではなく、また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもない。こうしたことが本当に理解されているかどうか。                       
 あの調査の質問が、「あなたの周辺の人々にコロナ感染を引き起こさないために、外出を控えて人との接触の機会を減らす、外出時は常にマスクをするなどすることで、あなたの自由を犠牲にしてもかまわないと思いますか」であれば、少なくとも半数以上の人は同意したかもしれない。

 しかし、「他人に迷惑をかけなければ何をしても良い」との論も常にある。迷惑をかけないと言うのは最小限度の行為であって、端的に言えば、他者に直接的に危害や迷惑をかけなければ、危害や迷惑をかけていないと判断し、自己(そして親密なお仲間)の利益のみを追求する行為を「自由」の名のもとに肯定するということだ。
 コロナウイルス感染がらみでは、米国では前述のマスク着用拒否、最近話題のホワイト・トラッシュ・バッシュ(参加者がホワイト・トラッシュ(白人の低所得者層)のふりをして安酒を飲み、そしてもちろんノーマスクでバカ騒ぎ(バッシュ)を楽しむイベントで、全米各地で行われている)、日本でも感染拡大地域の接待を伴う飲食店にあえて出入りするなどこうした考えに基づく行為が感染クラスターを多数生じさせている。

 どの国であろうとも、このような行為を進んで行う人々は他者が己の行為によってやがてどのような影響を受ける可能性があるかを思いめぐらす能力に欠けているのだ。
 つまり、「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」が十分でないと言ってよい。他者に感情移入する、共感する力が足りないのであって、このような能力のことを「エンパシー(empathy」と言うが、他者への同情、憐憫を意味し専ら感情的な「シンパシー(sympathy)」とは異なる。アダム・スミスは『道徳感情論』で共感の意味でシンパシーを使っているが、この言葉が内包する意味が広すぎるので、20世紀になってから、19 世紀に生まれたドイツ語の美学・心理学用語Einfühlung(einは英語のin(中)で、fühlungはfeeling(感情))が語源の言葉empathyが用いられるようになり、シンパシーと使い分けるようになったそうだ。

 結局、己の身体的あるいは精神的抵抗感からマスク着用を拒絶する人々、あるいは刹那的快楽を求めてあえてバカ騒ぎをする人々は己の行為が他人にマイナスの影響をあたえかねないことにまで思いがまわっていないので、つまりエンパシー(共感能力)が足りないのだ。アメリカ文化には弱者に手を差し伸べる、大金を寄付するなどのやや上から目線のシンパシー(憐憫、同情)の要素は確かにあるが、エンパシーは十分だろうか。  

(7)へつづく

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