コロナ感染拡大防止策として人の移動の自由を制限すること(5)
日本の状況
d程度の差はあっても、諸外国は私権を制限し、積極策を打ち出しコロナウイルス感染拡大防止を図っている。しかし、日本では、平成21年に定められた「新型インフルエンザ対策ガイドライン」に基づき平成24年に制定された「新型インフルエンザ等対策特別措置法」を、その対象である(1)新型インフルエンザ(2)過去に世界的に流行した再興型インフルエンザ(3)未知の新感染症に4番目として新コロナウイルスを加えたのみで対応を行っている。従来の感染症とは異なるコロナウイルスそのもの特定して考えられたものではない。ドイツの「感染保護法」は中身の改定や運用に弾力性を持たせており、コロナウイルスに的を絞った対策立案が可能なのと比べれば、日本政府の対策には手抜きの感が否めない。また、同措置法が制定される際には、首相が判断すれば緊急事態宣言を出し、都道府県知事が外出自粛や休校措置を要請できることに対して、日弁連および野党から国民の私権制限につながりかねないとの懸念も出されていたことは注目に値する。
日本政府はオリンピック開催、移動を制限することによる経済的損失を重く考えたか、他国に比べれば1ヶ月近く遅い4月7日に「非常事態宣言(緊急事態宣言)」を発令した。安倍首相は7日夜、首相官邸で記者会見し、「もはや時間の猶予はないとの結論に至った」と説明した。「国民生活、国民経済に甚大な影響を及ぼす恐れがある。経済は戦後最大の危機に直面している」と強調し、現在のペースで感染拡大が続けば感染者が2週間後に1万人、1カ月後には8万人を超えるとの見通しを示した。そして、「緊急事態を1カ月で脱出するには人と人との接触を7割、8割減らすことが前提だ」と国民に協力を求めた。また、集団感染防止のため総理大臣官邸・厚生労働省が「3つの「密」(3密とも表記)」の標語を発表、感染拡大を出来るだけ防ぐため密閉・密集・密接を避けるよう日本全国に要請した。3密は「3C(Closed spaces、Crowded places、Close-contact settings)」としてWHOにも採用されたので、この点では世界に貢献したと言えるかもしれない。
しかし、基本対応策は「自粛要請」という「緩い」かたちを選択。当初、海外の目はこのような日本の姿勢に対して批判的だった。「罰則(強制力)がなければ外出者数を抑え込めるわけがない」というのが世界の常識だったのだ。世界の常識に反して、9月14日時点で、日本は累計感染者数9万人を超えたが、死者数は1600人強で、強先進国の中では感染が最もコントロールされているといえる。しかし、なぜ「自粛要請」だったのか。国民の私権を損ねることに配慮したのか。
いや、それは法的な根拠がないからなのだ。
日本には、憲法上の権利保障を重視する観点で、ロックダウンのような都市封鎖はもちろん、イベントの中止などを強制する法律規定が存在しない。これが、日本政府が新型コロナウイルス感染症対策において、「要請」を多用せざるを得なかった理由なのだ。この点でも法改正を行って感染症対策強化を図ってきたドイツと対照的だ。このような中で、日本では長く「行政指導」という手法を中心に据えた行政運営がなされてきた。「行政指導」とは、「一定の目的達成のために、特定の者に一定の作為(法律で人の積極的な行為・挙動)または不作為を求める」行為のことだが、これもまた、相手方の任意の協力を前提とした「お願い」に過ぎないということで、今回のコロナ感染防止のための「自粛要請」も一種の行政指導と言える。
コロナウイルス感染防止のために「非強制措置」を選択した国は、日本以外に韓国とスウェーデンがある。しかし、この2国では、場合によって行政府が私権を制限することが認められているのに対し、日本の現在の法制度ではこうした政府の権限が認められていない。
「新型インフルエンザ等対策特別措置法」以外に緊急事態に対応するものとして日本では他に、「災害対策基本法」、「原子力災害対策特別措置法」、「武力攻撃事態等及び存立危機事態・国民保護法」の3つがあり、いずれも個人の私権に対して強制力のない「要請」、「指示」に留まっている点で共通している。この背景の一つには、戦前に成立した「治安維持法」が戦時下で民衆の弾圧のために濫用されたことに対する国民の不信感が根強く、歴代の政権はそれを慮って国の権限を最小にとどめる政策を維持してきたのだ。
「自粛」という言葉が一般的になったのは昭和前期頃からだそうで、太平洋戦争開戦後に当時の政府から勧告を受け、落語家が時節柄似合わない噺を封印したことや、戦後には、GHQの検閲対象として選ばれた噺を封印したことが残されており、また、1980年代から、自動車用スパイクタイヤによる粉塵被害が社会問題になったことに対し、禁止法が制定されるまでの間、スパイクタイヤをなるべく使わないよう呼びかける指導の中でも「自粛」という言葉が使われたとのことだ。いずれにせよ、言葉はともかく、行動レベルでは比較的新しいが、今までは自粛の対象が業界レベルとか一部に限られており、今回の「一億総自粛」は前代未聞だ。
「自粛」の「粛」は、漢語だと「心・規律などを引き締める・つつしむ」を意味し、 他人からの評価を気にして、自ら進んで行いや態度を慎むことを表すと言う。「自粛」は何らかの問題を起こして、それに対して自分の意思というよりは世間の目・他者からの評価を気にして、行うはずだったことを取りやめたりする、といった場合に使われるとのこと。ちなみに、自粛という言葉は中国語にはなく、日本語である。中国語だと、「自慎」、「自行約束」など、英語だと、「self-restraint」になるのだろうが、いずれも自ら考えて慎むことで、主体性が強く、世間の目、他者からの評価が行動の基準ではない。しかし、自粛は日本人の「お家芸」かもしれない。地理学者のジャレド・ダイアモンド博士は、日本の自粛を例に、少なくともコロナウイルス感染拡大防止では共同体重視の文化が個人重視の文化に勝ると認めている。
手元に興味深い調査結果がある。コロナウイルスが猛威を振るい始めた2020年3月9日~22日にかけて世界30ヵ国の18から69歳までの男女を対象に調査機関ギャラップ・インターナショナル・アソシエーションが行ったオンライン調査で、日本版レポートは㈱日本リサーチセンター(NRC)から発表された。30ヵ国の中には中国が含まれていないが、中国では政治的な内容に触れる調査(調査項目)は認められず、この種の調査は実施不可だ。
発表された調査項目は、①「自分自身または家族の誰かが実際にコロナウイルスに感染するかもしれないと思う」②「自国の政府はコロナウイルスにうまく対処していると思う」③「ウイルス拡散防止に役立つならば、自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない」④コロナウイルスから自身を守るために実施している予防手段について(複数回答)」の4つで、①から③までの回答は「非常にそう思う」から「全くそう思わない」までの4段階(他に「どちらとも言えない」)。質問項目の①、②はその国でコロナウイルス感染危機がどの程度切迫したものだったか、その時期によって左右されるものであり、実施時期にかかわらず参考になるのは③の「自分の人権を犠牲にしてもかまわない」になるが、この結果が興味深い。ちなみに④の予防策については、「手洗いをいつもより頻繁にする」、「家にいる/社会との交流を減らす」などの項目では日本と他の国はほとんど変わらないが、「マスクをする」は日本が70%で、ダントツであり、他の国(平均33%)を大きく上回った。
「ウイルス拡散防止に役立つならば、自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない」という意見について、「そう思う(計)」人の割合は、30ヵ国の平均では75%、日本では32%(で最も低い)(㈱日本リサーチセンター報告書より)
半数に近い48%が「感染防止に役立つとしても自分の人権をある程度までも犠牲にしたくない」と回答している。大して文句も言わずに「自粛」を行う日本人とは思えない数字だ。この調査結果を見て、日本人が順法意識や公共心に富むということは妄想だと断じる識者もいて、他方で、欧米人でも安易に公権力による統治を受け入れることに懸念を持つ人々もいたそうだ。なるほど確かに日本の数字は低い。「自分の人権を犠牲にしてもかまわない」の「そう思う(計)」はオーストリア95%をトップに、アジアではタイが最も高く85%、韓国で80%、権利意識が強い米国でさえ45%で日本を上回る。これを「日本では、自分の人権を犠牲にすることへの抵抗感が強い」と言い切って良いものなのか。良く言えば、日本人は、自ら進んで慎むことは大いにやるが、権力から強制されるのは真っ平なのだと。本当にそうなのだろうか。
注意しなければならないのは、このような調査結果を一律に「横並びに見て」比較をしてしまうことだ。私自身同一質問(設計が難しい)、同一対象者(性・年齢以外の指定はほぼ無理)で複数の国を対象とした所謂マルチカントリー調査を行ったことが幾度もあるが、その都度結果の読みには苦労した。その結果学習したことは、財の保有の有無などじっくり考えさせないでも回答できる質問、回答内容を別データで検証できる質問の回答以外は横並びの比較はしないほうが良いと言うことだ。生活信条や価値にかかわる質問の回答はやはりその社会的、文化的文脈の理解なしでは解釈しにくく、この調査の対象国の中には、イランのように公権力が強い国もあり、フランス、ドイツのように私権と公の利益の軋轢の長い歴史を持つ国々もあり、しかも、「人権」が認められる範囲とその理解の仕方は国によって差があるはずで、単純な比較は避けたいところだ。他と比べての高低ではなく、日本人の対象者の約半数が「自分の人権を犠牲にすること」に抵抗感を持つ理由はなんだろうかと考えるべきだが、残念ながら、オンライン調査ということもあって、その理由までは聞いていない。
そこで、この調査結果に対する私の考えだが、タイミング的に政府のコロナウイルス対応に関する日本人の不信感が微妙に反映されているのではないだろうか。この調査で、「政府はコロナウイルスにうまく対処していると思う」は23%で、タイの20%に次ぐ下から2番目の低評価であり、否定的評価は62%に上った。 NHKが実施している内閣支持率の調査によれば、3月の安倍内閣の支持率は、「支持する」が前の月より2ポイント下がって43%。逆に、「支持しない」は4ポイント上がって41%だった。
こうした世論の動向には、新型コロナウイルスの感染拡大に対する政府の対応に対する評価が影響していると思える。政府のこれまでの対応を、「大いに/ある程度評価する」は49%で、「あまり/まったく評価しない」は46%だった。2月の調査結果と比べると、前回は、「大いに…」と「ある程度…」を合わせ、64%が「評価する」と回答したが、3月は、「評価する」が半数を割り、「評価する」と「評価しない」が、『拮抗』する形となった。2月の時点では、まだ、クルーズ船などへの対応が中心で、国内感染者も数十人といった状況だったが、それから1か月。この間、政府の様々な対策にも関わらず、連日、各地で新たな感染者が見つかるなど、未だ、感染拡大に歯止めがかからない状況だった。内閣支持率では、その後、5月、6月、7月と「支持しない」が「支持」を10ポイント前後上回り、政府の評価は芳しくない。政府が打ち出すコロナ抑制施策に十分な信頼が置ければ、「私権を犠牲にしてもかまわない」回答率はもう少し高かった可能性があるのではないか。
さらに言えば、日本では公の利益のために私権をある程度犠牲することもやむをえないとの議論がまだ十分出来ていないのではないか。日本人は戦後様々な権利を手に入れたが、それらは歴史的に自ら勝ち取った物でなく、戦後GHQによっていわば与えられたものだ。権利とはなにか自由とはなにかは道徳あるいは公民の授業で教えられ、それが何を意味するかは教科書的に知っている。しかし、空気のようなものであることは知っていても、実感はないはずだ。正しくも理解していないだろう。実は、この質問の回答では30ヵ国平均の3倍である20%もの対象者が明確な意思を表明していないのだ。多くの日本人は人権の観念を持ってはいるが、その観念を意識化して、態度や行動で示すことができないと言うより、そもそも人権の観念を理解していない人が多いのではないか。
国民側の人権の観念が曖昧だと、政治的に利用される危険もある。例えば、「今の憲法では、権利と自由の主張が圧倒的で、義務の観念が極めて薄い。権利の数は一見しただけでも前記の如く沢山(20数回)あるが、義務は僅かに、勤労と納税と教育を受けさせる義務の三つでしかない。」(中曽根康弘『自主憲法の基本的性格-憲法擁護論の誤りを衝く』昭和三十年)というような内容が堂々と論じられたりする。
上記の文章は『日本人の法意識』で引用されたもので、引用に続けて、著者の川島武宜は、「新憲法がそれらの(国民の)権利を規定する、ということの目的ないし趣旨に対する、無理解から生じたものである。」と断じている。ちなみに勤労の義務は異色で、これを憲法に義務として記している国はスターリン下のソ連などの共産、社会主義国の一部のみだそうだ。
中曽根康弘の言は、「権利と義務は表裏一体である」との考え、つまり、「義務を果たすから、権利が保障される。権利を得るためには義務を果たす必要がある。」との考えに基づいているが、しかし、日本国憲法では、「国民は権利を持つ代償として義務を負え」とは一言も言っていない。国民の権利は義務とは関係なく保障されるものなのだ。このことさえ、今の日本人は十分に理解していないのではないか。
今回のコロナウイルス危機で自粛要請に徹した政府は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の抜本的見直しを危機が収束した後に先送りにした。私権の「聖域」に敢えて踏み込まなかったわけだ。これは政府が国民の権利に常に配慮していることの消極的な表れとも受け取れるが、そうではないだろう。一歩踏み込んで問題化させることを避けたのだ。アメリカやフランスの人権宣言が200年以上前につくられたのに比べて、日本国憲法は制定されて70年にも満たないが、人権条項が充実しているなど非常に先進的な思想に基づいているといわれる。しかし、それに政府、国民双方の意識が追い付いていない。
今回のコロナウイルス感染防止にあたって、諸外国のように行政が私権の制限を行うべきだったかは議論の余地があるが、行わられたとすれば、それを機会に国民の権利について前向きな討議がされた可能性はある。国民の権利がどのように守られ、あるいは制限されなければならないのか、その答えは一様でなく、ドイツのようにその都度真剣に検討される必要がある。検討が重ねられることによって、権利は具体的な姿を現していくはずだ。単なる条文ではなく、事実に裏付けされたより確かなものになるはずなのだが、「自粛」によってその機会はしばらく失われてしまった。
(6)へつづく