ナット・ヘントフのジャズ評 ① ジャズの政治経済学
米国のジャズ評論家と言えば、まず、レナード・フェザー(Leonard Feather)を思い出す。ジャズについて最初に読んだ本(The Pleasures of Jazz)の著者だからだ。この人は生粋の米国人ではなく、ロンドン生まれだ。この人の文章にはジャズ愛があふれており、評論家というよりジャズ応援団と呼ぶのが相応しい。さらには、ホイットニー・バリエット(Whitney Balliet)だ。この人は主に『ニューヨーカー』で読んだ。『ニューヨーカー』は勤めていた会社の定期購読誌の一つで、同誌のスポーツコラムニスト、ロジャー・エンジェル(Roger Angell)とホイットニー・バリエットを読むために、新しい号が入っていないか図書室の洋雑誌の棚をチェックしたものだ。スポーツと音楽、ジャンルこそ違うが、両者とも形容詞を排した無駄のない、それだけに硬派な文章で、読み応えがあった。
そして、ナット・ヘントフ(Nat Hentoff)。この人は米国の老舗音楽誌『ダウンビート』の記者で、ジャズマンの聞き語りをまとめたHear Me Talkin’ To Ya(共著)、Jazz Countryなどの著書がある。ジャズを論じるなら当然のことと公民権運動にも積極的に関わった。
そのナット・ヘントフの著書の一冊にJazz Isがある。エリントン、アームストロング、マイルズ、パーカーなどジャズを形作ってきた人々を取り上げ、同時にジャズのルーツ、米国社会でのジャズの有り様を探るものだ。今回は、この本の中からナット・ヘントフの問題意識がよくわかる『ジャズの政治経済学』と題された章を紹介したい。
昔から何度となく語られてきたジャズにまつわる神話の一つに、バップ以前(つまり、モダンジャズ以前)黒人の器楽奏者や演奏家はジャズについて政治的に考えることはなかったというものがある。ジャズは生きることであり、仕事であり、そして、間違いなく、独自の審美基準を持つ非常に個性的な表現方法なのだ。(ポール・ホワイトマンさん、スイングしなければ、意味ないよ。あんたはスイングしないけれど。)しかし、「これは我々の音楽だ。我々が支配すべきなのだ。」という今日的な意味での黒人の意識は、白人たちによれば、黒人のミュージシャンは早くからそこまでナウい存在ではなく、ただただ吹きまくること、そしていくらかの金を稼ぐことしか頭になかったということだ。
実際は、1920年代後半にデューク・エリントンがフレッチャー・ヘンダーソンにある提案を持ちかけている。当時はポール・ホワイトマンがジャズに「品位」をもたらしたといろいろ喧伝されていた時期で、エリントンがヘンダーソンに言うには、「おい、ジャズという言葉を使うのを止めようじゃないか。我々のやっていることを「黒人の音楽」と呼ぼう。そうすれば、我々がやっていることとホワイトマンとか他の白人たちがやっていることがごっちゃにならなくて済む。」ヘンダーソンは用心深い男だったので、実現すれば歴史的だったこの大胆な提案を受け入れなかった。一方で、エリントンはその後も作曲し、演奏し続けたが、ジャズという言葉を使うことはほとんどなかった。
こう思っていたのはエリントンだけではないとヘントフは続ける。ヘントフは10代のころからジャズマンと交流があり、レックス・スチュワートやフランキー・ニュートンと言った中堅どころのプレイヤーたちが、「支配するところに金が集まるのさ。」、「黒人が経営するレコード会社、エージェント、ラジオ局、音楽雑誌って聞いたことがあるかい。」、「エリントンはこの国ではベートーベンのような存在だが、学校でエリントンについて教わると思うかい。」などと言うのを耳にしている。ヘントフは若いころから『ケニオン・レビュー』(Kenyon Review)、『パルティザン・レビュー』(Partisan Review)、 『シウォニー・レヴュー』(Sewanee Review)などの米国の高級文芸誌を読み漁ったが、このようなトレンドセッターと言うべき雑誌にとってもジャズなどあって無きに等しいものだった。このような雑誌にジャズが取り上げられるのは5年に1回程度だろうとヘントフは述べている。
かの有名なカクテルパーティをリンドン・ジョンソンが催した際に、ドワィト・マクドナルド(パルティザン・レビューの編集者で米国の左翼系知識人の代表格)はThe New York Review of Books誌に長文の記事を寄せ、その重要な日に集まった数多くのアーティストの中に米国人の作曲家が一人もいなかったことを嘆いた。しかし、その一方で、マクドナルドは、当日のゲストのためにデューク・エリントンの偉大なオーケストラが演奏したことをパーティの最も素晴らしい瞬間だと述べているのだ。ドワイト・マクドナルドがエリントンを作曲家とも見做していないと知って私は大きなショックを受けた。
これはジャズ評論家、ラルフ・グリーソンがその著書で述べていることをヘントフが引用したものだ。その通り、米国のインテリ層でエリントンは作曲家とは見做されていない。エリントンは陽気な黒人芸人の一人と見做されているのだ。
このようなこともあり、ヘントフは米国に根差した文化の研究者になろうと決意し、ハーバード大学院で米国文化研究のドクターコースに進んだのだが、そこでは、黒人音楽の研究などまるで無意味とされていた。ある日、大学院をドロップアウトして、その日の晩にボストンのサボイカフェで行われたシドニー・ベシェの演奏を聴きに行き、そこで、手掛けようとしていたジェイムス・フェニモア・クーパーの研究より米国文化の理解のためにはその晩の出来事の方がはるかに大事なものだと悟った。
白人の文化権威の頭は相変わらず凍り付いたままだったが、モダンジャズの登場と共に黒人ミュージシャンの意識には変化が現れた。ピアニストで作曲家でもあるジョン・ルイス(John Lewis)はこう述べている。「呼び方はどうでもいいが、この革命的なものが1940年代に起きたのにはいくつか理由があって、必ずしも音楽的な理由だけではない。若いミュージシャンにとって、これは、ネグロは人々を楽しませればそれでいいという姿勢に対する反発なのだ。若い黒人ミュージシャンの新しい姿勢はこうだ。あくまで俺が演奏するものを基準に聴いてくれ。そうでなければ、忘れてもらって結構。」チャーリー・パーカー、マイルズ・ディヴィス等、多くのミュージシャンがこのようにプレイしたが、変化したのはプレイだけではなく、不当な経済的扱いについても声が上がるようになった。マックス・ローチ(Max Roach)は言う。「この音楽は我々が創り上げたものだ。これは黒人のクラッシック音楽なんだ。白人のクラシック音楽家は我々の数倍のアドバンスをもらっている。ヨーロッパのクラシック音楽には基金や国からの援助があるが、黒人音楽は何から何まで自分で支えなければならない。」
レコード会社については、黒人ミュージシャンの新たなレーベルが登場し始め、大手が手を出さない冒険的な演奏のレコーディングを始めたが、肝心の流通が白人中心にコントロールされていたために、販売は思わしくなかった。そこでささやかながら独自の流通網開拓が行われたりした。大手のレコード会社で働く黒人もいたのだが、経営からはかなり遠い立場にとどまっていた。
音楽業界のみならず学校教育の問題もある。黒人ミュージシャンが教育の現場に入って低学年のうちからジャズに触れさせるということもでき始めてはいるが、それはまだ数少ない。黒人小学校のある校長は、黒人のヘリテージを教えるということで学校の壁に科学者などの著名な黒人、例えば、マーティン・ルーサー・キング師、マルコムXを含む人々の写真を壁に貼っていたが、その中に黒人ミュージシャンのものはなかった。それで、ヘントフがそのわけを問うたところ、校長の答えは、「だって、あの人たちは芸人でしょ。望ましいのは何かを成し遂げた人たちなのです。」
学校教育の現場で教えるミュージシャンも現れ始め、その一人にドナルド・バード(Donald Byrd)がいた。彼はハワード大学でジャズ学部の主任教授を務めたこともある。ハワード大学は全米屈指の黒人大学だが、白人の定めた高級な文化基準に合致しないとの理由からそれまでジャズの授業を禁じていたのだ。
バードは他の黒人大学他にもでも講師を務めていたが、その一つで文化的植民地主義の根強さに直面することになる。
バードは文化的植民地主義の典型例と言うべきものに遭遇して、それがいかに根強いものかを実感した。キャンパスに到着し、音楽学部の先任教授に出迎えられたのだが、教授には悩みがあり、それは、
「学生たちが良い音楽を聴いてくれない。」ことで、
バードは、「つまり、それはどういうことなのかな。」と問うた。
「わかってるだろう。バッハ、ベートーベン、ブラームスなどだよ。」
バードは冷たい目で教授を見つめ、「今夜何を講義しようかと悩んでいたのだが、今、分かった。今夜の講義のテーマは君だ。良い音楽とは何か、君のそれはヨーロッパの規準で、狭く硬直している。目を覚ませ。黒人音楽に目を開け。」と言った。
ドナルド・バードは、ピアニスト、ジョージ・ウオーリントンのバンドからスタートして、アート・ブレーキ―を始め数多くのジャズメンと共演し、ハービー・ハンコックなどにも影響を与えたミュージシャンだ。彼を始め、数多くの黒人ミュージシャンが高等教育の現場に進出し、ジャズの理解促進に努めたが、高等教育に携わる白人の多くは黒人音楽の大切さ、その本質について無智であり、まだまだ障害が多かった。作曲家デイヴィッド・ベーカーはこう述べている。「ジャズを学ぶ者たちが西洋音楽に対して同じ程度の無智を示したら、音楽的文盲と見做されるだろう。しかし、世の中には、遠い15世紀の埋もれた作曲家、17世紀の音楽論、失われたオペラに関する事柄に関する博学をひけらかす一方で、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、ジョージ・ラッセルについて全く知識がない博士論文志願者がいるのだ。」
一方で、若者の間でジャズに対する関心が復活しつつあるようだ。驚くほどの程度ではないが、心強いことだ。関心の高まりを示す一つの指標が、ジャズの講義が行われているところでは参加する学生の数が増えていることだ。
数年前、その時の公民権と黒人カルチャーの「革命」に刺激されて、あるピアニスト・作曲家の黒人青年がこのような問いを発した。「クラシック音楽のためにリンカーン・センターのような施設があるなら、この社会が生み出した音楽のための建築物があってもいいのじゃないか。」しかし、この問いに対する答えはまだない。
「もうあのころとは違う」(Things Ain’t What They Used to Be)はデューク・エリントンの曲のタイトルだ。しかし、この点、ジャズに関しては大した変化はない。音楽としてジャズはどんどん変化している。しかし、ジャズの政治経済学に大きな変化はないのはご存じの通りだ。そして、学校では、黒人の生徒も白人の生徒も死んでしまったヨーロッパ人の音楽の鑑賞を強いられているのだ。
ヘントフがこの文章を書いたのは1974年前後だろう。今では、リンカーン・センターを構成する部門の一つとして、ジャズ・アット・リンカーン・センター(Jazz at Lincoln Center、略称:JALC)がある。この施設の一環としてフレデリック・P・ローズ・ホール(Frederick P. Rose Hall)があり、ジャズコンサートが行われている。また、偉大なジャズマンを顕彰する施設もある。この間、かなりの変化があったわけだ。また、多文化音楽教育も浸透しつつあるようだ。米国の重要な文化ヘリテージとしてジャズはその地位を確立したようだ。
現在の米国の音楽はラップ、ブラック・コンテンポラリー、ヒップホップなどの黒人ミュージックに席巻されている。しかし、米国音楽界の最大の祭典、グラミー賞では数多くの問題が指摘されていて、その一つは、選考する側の大多数が白人男性であることだ。
グラミー賞候補は、主催者「レコーディング・アカデミー」の会員の投票で選出され、会員は約1万2000人いるが、2020年の時点で女性会員の割合は26%で、非白人もわずか25%に留まる。つまり、白人男性優位の音楽産業の構造は大きく変わっていない。
音楽としてのジャズはどうだろう。黒人音楽優勢と言っても、所謂ブラック・コンテンポラリーは白人のリスナーにも受け入れられるようにマイルドに洗練されてきたもので、これには白人主導による黒人音楽の模倣であると言うべきだろう。裏声を多用した抑制のない歌、ベースとバスドラム主体の重低音ばかりの音楽は正直受け入れがたい。また、ヒップホップは音楽というより社会現象のように思える。もちろんラップもそうだ。面白いが音楽ではない。黒人音楽全盛の時代であっても、その中にジャズはないようだ。
ジャズが米国内で大衆の人気を失っていったのは、ロックやポップスが台頭し、聴き手がジャズから離れて行った60年代からと言われいる。その後、ベン・ウェブスターのようなプレイヤーはヨーロッパへ活躍の場を求めて米国を去り、フリージャズやフピリチュアルジャズのような新しいスタイルの探求、マイルズやハービー・ハンコックのようにロックやファンクへの接近、フュージョンやスムース・ジャズといった、ジャズは様々なスタイルに分化していった。一言で言えば、ジャズが大衆の好みに迎合することで、そのエッセンスを失いつつある。ジャズの本質はBluesだと思うが、CreamのCross Roadのような演奏にそれがあり、ジャズの演奏にはそれがなかった。ジャズはBluesを失ってしまったのだろうか。
1981年だったか、マイルズの新宿西口公演に行った。マイルズがこんなに衰えているとは思わなかった。電気で増幅されたかすれたペットの音に往年の彼はいなかった。それでも何とかいいところを探そうとしたが、無駄だった。ただ、ペットを下に向けて吹く姿のみが印象に残った。その時、ジャズの一つの時代が終わったとの感があった。ずいぶん昔のことだ。