シドニー・ベシェを語る ホブズボームのジャズ評を通して③-2


 時代後れだと思われている上に景気が悪く、ホットなジャズの需要もないのだから、ベシェにとっては厳しい時代だったに違いない。 ところが、ベシェにとって予期せぬことが起こった。

ベシェを救ったのは前例のないそして突然のジャズ懐古趣味だった。それは熱狂的な若い白人ファンの間で生粋のニューオーリンズ・ジャズ探求の形となって現れた。彼らにとってジャズは単なる音楽ではなく、一つのシンボルであり主張でもあったのだ。この探求からディキシーランドリバイバルが生まれたのだが、これは「ジャズの歴史の中では最も長く続いたムーブメントだが、これといった価値あるものを生み出さなかった唯一のものである」と軽視され続けてきたのである。しかし、このムーブメントの産物がベシェのジャズの本流への復活のみであったとしても、十分な存在価値があったと言えるだろう。

 1940年の「サンフランシスコ博覧会」で、トランぺッターのルー・ワターズ(Lu Watters)が率いるヤーバ・ブエナ・ジヤズバンド(Yerba Buena Jazz Band)が演奏したデキシーランドジャズが話題を集め、それからデキシーランドジャズ・リバイバルが巻き起こった。このバンドは、ルー・ワターズが他のバンドでニューオーリンズに滞在した時にトラディショナルジャズに強く惹かれ、1938年に他に5人のメンバーを集めて結成したもので、キング・オリバー(King Oliver)のスタイルに則って演奏した。ヤーバ・ブエナとはサンフランシスの元となる居住地の名称のことだ。しかし、

ディキシーランドあるいはニューオーリンズ・ジャズのリバイバルは、これによって数多くのアマチュア―がマスカレット・ランブルなどの曲を演奏して楽しむことができたのだが、本質的には音楽的な現象ではなかった。この現象は文化史あるいは知の歴史に属するもので、だからこそ真摯な研究がなされるべきなのだが、それはまだ行われていないのだ。年老いたクレオールのミュージシャン、特に不遇をかこっていた者は当然ながらこの運動を歓迎したのだが、これは純粋に白人たちに由来した運動だったのである。“ニューオーリンズ”はいくつもの神話あるいはシンボルとなった。それは反商業的であり、反人種差別であり、プロレタリアートで人民主義であった。ニューディールの急進主義であり、上品ぶることへの反抗、あるいは親への反抗でもあった。嗜好によってなんにでもなったのである。

 つまり、このリバイバルは、ジャズにとっては、

「ターク・マーフィーと彼のサンフランシスコジャズはどうですか。」とグロス氏が質問した。
「ターク・マーフィーのような人々がやっていることは、ジェリー・ロール・モートンたちのレコードをレコードのノイズレベルに至るまでコピーすることなんだ。」ヘントフ氏は答えた。「リバイバリストたちに起こっていることは、元々自分がいたはずもない場所に対してホームシックになるようなものだ。」 (ホイットニー・バリエット ザ・ニューヨーカー 1954年)

と、ナット・ヘントフに一刀両断された「あだ花」のようなものだった。

 しかし、「普遍的な音楽的審美眼を持つ男」シドニー・ベシェはディキシーランドの世界にどっぷり浸かることになった。1940年にベシェはルイ・アームストロングと1924年以来の録音を行い、アームストロングに勝るとも劣らない演奏を繰り広げた。また、ブルーノートに吹き込んだSummer Timeは同レーベルの最初のヒット作となった。とは言え、ベシェは基本的にわが道を行くプレイヤーで、リニア―なインプロヴァイザーであり、メロディストであって、ハーモニーにはさほど関心を示さなかった。ルイ・アームストロングに「黄金色の蜂蜜」と称された力強く饒舌でロープが震えうねるようなサウンドは音楽に詳しくない人間にとってもわかりやすく、ベシェ自身も大層気に入っていた。ベシェは特にこだわりもなく、時代に合わせる必要も感じないで、スタイルに関係なく優れたミュージシャンたちと共演できたのだ。

 チルトンの伝記から浮かびあがるシドニー・ベシェは、ニューオーリンズ出身の典型像である一方、極めて風変わりな人物である。彼は、フランス系移民の子孫であり、白人と黒人の混血ムラートで中流下層階級出身だが、南北戦争の後の人種隔離政策で黒人としての生き方を強いられ、コミュニティの伝統である音楽的なスキルと職業的スキルを身に着けたのだ。ベシェは音楽だけではなく、服の仕立も料理人として働くこともできたのである。一方で、ミュージシャンとして生来の才能があることもあって、後年になってからは反抗心から、そして最後は自己防衛として、音楽を正式に学ぶことはなかった。

 また、ベシェは人種同士の関係に珍しく関心がなかったが、これはニューオーリンズのミュージシャンに共通しているように思える。ダレンスボーグの本を読む限り、ベシェが黒人か白人か定かではなくなる。ベシェ自身も皮膚の色より音楽の才能の方が大事だと言っていた。
 メズ・メズロー(Mezz Mezzrow 「特別志願黒人」と自称した白人トランぺッター)がいみじくも言ったように、「人種は関係ない… 大事なのは正しい音が出せるかだ。」ベシェはクラシック音楽に興味を持ち、モスクワでは暇があればシンフォニーコンサートに出かけていた。ベシェはそのビブラートをカルーソー(Enrico Caruso)から得たと言っていたし、エスプレッシーヴォ(espressivo 表情豊かに演奏する)の大家であるベシェはオペラ『道化師』から引用したり、ベートーヴェンの肖像を壁にかけていたりしたのだ。

 ジャズプレイヤーは概ね羽目を外した行動に寛容なのだが、バンドスタンドから見るベシェは明らかに芳しいものではなかった。ベシェを大いに評価していたエリントンは1932年に彼を雇おうと真剣に考えたが、結局そうしないことを選んだのだ

ベシェはジャズの世界で並外れた人物だった。自分の果たすべき役割を選ぶのが不得意な男でもあった。ファンタジーの世界に棲み、徘徊するよそ者で一所に長居はせず、ホームはなく、王座のみが自らに相応しいと考え、自分以外の誰にも忠実ではなかった。とは言え、ベシェは驚嘆すべき、記憶に残るアーティストであり、過去のものとなった伝統にどっぷり漬かりながらも独創的なプレイを行った。彼の死後、モダーンなジャズマンたちの間でも評価を得た。ソプラノサックスが彼らの間に広まったことがその証である。それまではベシェの独占物と言ってよい楽器だったのだ。

 そして、ホブズボームはこう結んでいる。

中流階層の白人たちのおかげベシェの死後に78回転の古いレコードを探し出す必要がなくなった。彼が存命中に最高水準の演奏を手にできた我々は幸運なのだ。例え、ジャズに詳しくなくとも、ジャズファンであることにはそれなりの存在意義があるものだ。彼らがベシェを耳にした時、ベシェがどこで吹いたとしても、その楽器から出てくる音の豊饒さ、リリカルなパッション、スイングする喜び、そしてブルースをなんの苦も無く理解できたのである。ファンは常に最上のものを好むとは限らないが、ベシェの場合はそうだったのである。

さて、シドニー・ベシェの録音で選ぶとすればどれだろう。

まず、1924年のThe Clarence Williams Blue Fiveのメンバーとしてルイ・アームストロングと共演したセッションからTexas Moarner Bluesだろう。ベシェの初録音は1923年だから、ごく初期の録音となる。アームストロングはまだ駆け出しだが、すでに存在感を放っている。楽器はコルネットだ。ベシェはこのころからソプラノサックスだ。

Texas Moarner Blues(1924)

ブルーノート最初のヒット、Summertimeを聴こう。1939年のこの録音にはピアノのミード“ルクス”ルイス(Mead “Lux” Lewis)、名ドラマーのシドニー・カトレット(Sydney Catlett)が参加している。ワンホーンだから、ベシェのソプラノプレイが堪能できる。

Summertime(1939)

私が好きなピアニスト、アール・ハインズとの1940年の共演ではBlues in Thirdsだ。ベイビー・ドッズのドラムが重すぎるのが難だが、ハインズ、ベシェ共に小気味よいプレイだ。

Blues in Thirds(1940)

最後は、Petite Fleurになるかな。ホブズボームが「そのビブラートが耐えられないという者もいる」と書いているように、初録音は、可憐な曲に対してビブラートが過剰に聞こえ、すこし辛いので、1954年に行われたパリのオリンピア劇場でのライブ演奏が良い。ヨーロッパでのベシェの人気ぶりもわかる。

Petite Fleur

シドニー・ベシェのアナログ盤は結構持っているはずだが、段ボールの中にある。最近、ターンテーブルを手に入れてアナログ盤を引っ張り出そうと考えているので、じっくり聴いてみたい。これほど個性的なミュージシャンも珍しいだろう。

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