シドニー・ベシェを語る ホブズボームのジャズ評を通して③-1
シドニー・ベシェ(Sidney Bechet)は、1897年5月14日にニューオーリンズに生まれ、 1959年5月14日にパリで死んだ。クラリネット奏者として活動を始め、後年ソプラノサックスを主に演奏した。日本ではザ・ピーナッツが歌った『可愛い花』(原題Petite Fleur)の作曲とオリジナルの録音がシドニー・ベシェであると言っても、もはやわからないかもしれない。彼の録音は、RCAジャズ栄光の遺産シリーズの『ニューオーリンズ・ジャズの真髄』というコレクションで手に入れた。しかし、同じ日に生まれ死ぬなんてなかなかできないことですよ。写真の印象でずいぶんなじいさんだと思っていたが、60歳前半で死んだのだ。昔のジャズマンは早世だったなあ。
エリック・ホブズボームがThe Caruso of Jazzというタイトルでシドニー・ベシェについて書いている。その内容は、Sydney Bechet: The Wizard of JazzとJazz Odyssey: The Autobiography of Joe Darensbourgの二冊の本の書評である。
シドニー・ベシェは、ジャズが世間に認められて間もない時期に「天才的アーティスト」として認められたプレイヤーの最初に位置する人物である。シドニー・ベシェほど有名なジャズミュージシャンは数少なく、しかも、彼は特にジャズに縁がない人々の間でも名が通っているのである。聴いてすぐ彼だとわかるようなサウンドを持つ者は他にいない。1959年にベシェが亡くなった数か月後フランスのリビエラで彼の銅像の除幕式が行われた。そして、伝記作者が苦労して調べてくれたおかげで、ベシェの顔がチャドとガボンで発行された切手になっていることを知ったのだ。詩人、フィリップ・ラーキン(Philip Larkin)はベシェに次のような詩を捧げている。
On me your voice falls as they say love should
Like an enormous yes
ベシェのサウンドは大きな肯定として、愛として心に響くのだ。
シドニー・ベシェはサキソフォーンをジャズの楽器として成立させたと言えるミュージシャンで、エリントン、ベニー・カーター(Benny Carter)といった大物にもリスペクトされていた。しかし、彼がジャズの主流であったことはなく、むしろその周辺にいた。それはなぜなのか。ジャズにインスパイアされたファンのみがなしうる入念で学究的な情報収集の記念碑であるとホブズボームが褒めているジョン・チルトンの著作がそのわけを教えてくれる。
シドニー・ベシェは映画ないしはテレビの格好の材料となってもよいほどの波乱万丈の人生を送った男で、英国とフランスから国外退去させられ(英国ではレイプの罪で逮捕された後、フランスではモンマルトルでの銃撃戦で服役した後で)、ベシー・スミス(Bessie Smith ブルースの女帝として知られる)、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker 歌手、エンターティナー)の両方と長年情事を重ね、タルーラ・バンクヘッド(Tallulah Bankhead 米国の人気女優)とも関係を持ち、1920年代のモスクワで人気者となり、ジェームズ・ボンドのMのモデルの人物にクラリネットを教えた人物などざらにはいない。
この世代のジャズマンには珍しく、ベシェは生来の一匹狼で、彼と関わった人物はほぼ必ず喧嘩別れし、ベシェは要注意人物とされた。ジャズミュージシャンには自己中心的な人物が珍しくなく、「人間じゃない、化け物だ」と見做されるほどの者もいたのだが、ベシェはその上を行っていた。「自分が気に入られていないとわかったら、相手にとって非常に危険な存在となった。」、「一緒に仕事をするのがひどく難しく、自己中心的で、他人に思いやりがなく、スポットライトを分け合うことをひどく嫌がった。」、「邪悪になれる人間で、偏執症と言ってもおかしくはない」などとひどい目に会った人々の声が続く。
しかし、シドニー・ベシェが孤立したのはこうした性格がすべてではない。
ジャズは元来民主的な芸術で、プレイヤーが一緒に演奏することで形が出来ていくので、いかに個人プレイが傑出していても、独りではなにもできないことが多いのである。
しかし、ベシェはジャズの集団的性格を理解していながらも、自分が中心に展開しないもの、あるいは名人芸を発揮する場所を与えないタイプのジャズ演奏を嫌っていた。彼がクラリネットから当時は誰の専門でもなかったソプラノサックスに持ち替えたのも、演奏をリードするのに向いていること、アンサンブルで際立つことが理由だった。それで、リードする役割を奪ってしまうトランペットとの共演を嫌い、特にルイ・アームストロングはダメだった。彼に御株を奪われてしまうかもしれないのだ。出しゃばらないタイプのトミー・ラドニア(Tommy Ladnier)やマグシー・スパニア(Muggsy Spanier)となら共演できたので、彼らにソロの出番も許し、結果的に良い演奏が生まれることになった。ベシェが共演を歓迎したのは、ピアニストで、ピアノは己のプレイを引き立てるからで、アール・ハインズ(Earl Hines)とのコラボでは名演を生み出した。
また、ベシェの孤立には地理的要因が大きい。ジャズは「離散の音楽」(diaspora music)なのだ。オールドサウス(南部のバージニア州、ノースカロライナ州など6州)からの集団移民はジャズの歴史の大事な部分をなしているのだ。ラッパを持った男たちがそれまで無縁であった土地にジャズを持ち込まなかったら、米国音楽としてのジャズはなかっただろう。
それでも、ほとんどのジャズマンたちは米国内にとどまった。結局、米国がジャズの現場なのだ。ベシェはジョセフィン・ベーカーのように初めからグローバルな市場を目指した数少ないミュージシャンの一人だった。1920年代のうちベシェが米国にいたのは三年間に過ぎず、ほぼ英国、フランス、ドイツ、ロシア、そしてその他の欧州の国で過ごしたので、1931年に帰国しても、若手のプレイヤーからはコールマン・ホーキンス、ベニー・カーターなどに比して過去の人物と見なされたのだ。戻った時期も悪かった。不況の影響も残っていたし、聴衆の好みは勢いがある音の大きい音楽から静かな夢見るような世界の音楽に移っていたのである。これは米国だけではなく世界的な傾向だった。20世紀のマスメディアが生んだ最初のポップスターと言われるルディ・ヴァリー(Rudy Vallee)は一晩で2800人の聴衆を集めたが、エリントン楽団の客はその1/4に過ぎなかった。ムード音楽のガイ・ロンバルド楽団(Guy Lombardo)の2200人に対し、ディジー・ガレスピーが在籍したこともあるキャブ・キャロウェイ楽団(Cab Calloway)は500人、コマーシャルなベン・バーニー楽団の2000人に対してルイ・アームストロングの聴衆は350人だった。
(③‐2につづく)