『ヘンリー・アダムズの教育』(2)
今から紹介する文章は、ヘンリー・アダムズが、父親、チャールズ・フランシス・アダムズが英国公使としてロンドンに駐在する際に私設秘書として同行した時の回想だ。ヘンリー・アダムズとその父は、南北戦争初頭の政治と外交の荒波に巻き込まれ、奴隷制廃止を標榜している英国政府ならユニオン(Union、南北戦争時のアメリカ合衆国のこと、対して南部はCSA、Confederate States of America、米国連邦国)の主張に同情的であることを期待していたが、英国は綿花輸入の8割を南部に依存していたことに加え、「統一された強い米国」を好まず、分断によってその力が減じることを望み、中立どころか南部同盟に肩入れする傾向があり、また、英国政府には、奴隷問題は北と南の戦争の主たるイシューではないとの認識もあって、その期待は裏切られた。また、戦争当初は南軍が優勢で、北軍敗北の知らせが入り、英国政府高官が「また南が北をやっつけたらしいな。」などと話すのを耳にして、ひどくショックを受けたりもした。この時、ヘンリー・アダムズは心身ともに疲れ切っていた。そんな時の出来事である。前のパートでも述べたが、三人称で書かれていることに注意されたい。
1861年はヘンリー・アダムズの生涯の中で一つの汚点であり、この年に得た学びのほとんどは喜んで忘れ去っても良いようなものだった。覚えている限り、彼には一人の友もなく、敵を作ることさえなかった。この年も押し詰まったころ、モンクトン=ミルンズ(Richard Monckton Milnes、英国の詩人、文学のパトロン、社会正義を支持した政治家、フローレンス・ナイチンゲールに求婚したが、断られた)からフライストン・ホールに招かれたのはうれしかった。これはモンクトン・ミルンズの若者に対する数知れない慈善的行為の一つであり、このような行為によって彼の名が後世に残されたのだ。ミルンズは人々に親切であることを信条としていた。彼のそのやり方について非難がましいことを言う者もいたが、彼と同じようなことをしようとする者は誰一人いなかったのだ。もちろん、意気消沈し、ふさぎ込んでいた私設秘書にとってこの招きはまことにありがたく、この親切を忘れることはなかった。英国の田園地方を訪れたのはこれが最初だったが、ここで得た教えゆえにこの訪問は価値あるものとなった。いつ田園地方を訪れてもそこでの経験は似たり寄ったりなものだが、モンクトン・ミルンズは尋常な人ではない。彼のカントリーハウスでの集いは多種多様な社会の構成要員を交流させるのが目的だったのだ。フライストンは自然の美を愛でるための場所ではなかったし、ヨークシャーならではの冬の霧雨のために女性たちがおらず、そのために余計寒々しく感じたが、ミルンズが12月の集いを活気あるものにするために集めたメンバーは招かれた者同士にとっても驚くべきものだった。他の客が実際に驚きを感じたかは定かではなく、五人のメンバーのうちつまらない人物はアダムズのみで、彼は聞き役に徹するだけで、機知とユーモアに富んだ会話に何も貢献できなかった。しかし、聞き手の存在は必要不可欠なものであり、この点で彼は役に立ったとも言える。
アダムズを除いた四人の中で最年長はミルンズその人で、一見して風変わりなのだが、その実、五人の中では最も分別がある人だったと思う。他の点に関してはともかく、ヨークシャーでは分別にとりわけ重きが置かれるのである。それでも、ミルンズはワシントンとボストン以外は右も左も定かでない若い米国人をびっくりさせたのだ。ヨークシャーの男が大酒飲みで競馬を好むことは本で読み知っていたので、そのような人物なら驚くことはなかったろう。しかし、ミルンズの場合、彼に会話で付いて行こうとすれば、彼のみが持つ社会と文学に関する知識のレベルが必要になるのだ。しかも、ミルンズはそれらのことを様々な切り口で語り、またそれが面白いのである。
二人目のメンバーは年配の人物で、穏やかで、礼儀正しく、非常に感じの良い紳士であり、文学畑の人だと感じさせた。ディナーの着替えのためにアダムズを部屋に案内してくれた際に、ミルンズはこの客について一言二言話したが、スターリング・オブ・キーア(スコットランドで最も古い家系の一つ、この人物はSir William Stirling-Maxwell、スペイン学者、歴史家、国会議員)と呼んでいた。ミルンズは紹介の締めくくりにスターリングは一つを除けばひどく平穏な人物で、その一つとはナポレオン三世への憎悪だと述べた。この点については、アダムズ自身も大いに感じるところなので(アダムズもナポレオン三世は大嫌いである)、そのスコットランド人の紳士の怒りがどの程度のものなのだろうかと思わざるを得なかった。
三番目の人物は30歳くらいで、アダムズはすでにパーマストン卿夫人のところで会ったことがあり、その時は片腕を吊っていた。彼の容姿、振る舞いは人の同情を誘うようなところがあって、ちょっと痛々しいほどだが、真摯で穏やかな魅力があり、心地よい笑みを浮かべ、また話が面白かった。彼の名はロウレンス・オリファント(Laurence Oliphant、外交官、作家、旅行家、オランダ語ができたので在日本英国公使館の一等書記官を務めたが、江戸滞在中第一次東禅寺事件で負傷)で、丁度日本から帰国したばかりであり、その地で狂信者が英国公使館を襲った際に負傷したのだった。オリファントはきわめて分別がありそうで、おかしなぐらいカントリーハウスに似合っていた。カントリーハウスのパーティでは、居合わせる男性はすべて彼と一緒の時を楽しみ、女性にも受けるだろうと思うのだ。その時は、まだ『ピカデリー』(Piccadilly、1870年出版の風刺小説)を出してはいなかったが、おそらく執筆中だったのではないか。一時期、外務省に関わりのある若者の類に漏れず、彼も『オウル誌』(The Owl)に寄稿していた。
四番目の参加者は少年、あるいは少年のようにも見えたが、実際は、アダムズより一つ年上で、その行動において、また、その行動を生み出す性格において一世代後に続くロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson、後の事だが、ヘンリー・アダムズには彼と会って話をする機会があった)によく似た人物であった。例えれば、長い冠毛があり、嘴が長く、素早く動き回り、けたたましい声でユーモアをまき散らす熱帯の鳥であって、英国に生息するヒバリやナイチンゲールとは似ても似つかないものである。フクロウの群れの中の真っ赤なコンゴウインコとまでは言わないが、並みの人間とはだいぶ違うのである。ミルンズは彼を、アルジャーノン・スウィンバーン氏(Algernon Charles Swinburne、詩人)だと紹介したが、彼の名前を聞いても、何もわからなかった。ミルンズは常に新たなコインを発掘してはそれを世に流布させようとしていたのである。自分は何人でもなく価値がないと思っていたヘンリー・アダムズも発掘していたのだ。ミルンズはアダムズの部屋にしばらく留まって、スウィンバーンはまだ出版されていないものの実に並外れた称賛に値する詩を書いていると話していたのだが、ミルンズはこの先何を発見するのだろう。もしかして私設秘書に何か美点を見出してくれるのだろうかとアダムズは考えた。ミルンズにはその力があるのだ。五人のメンバーはディナーのテーブルについた。女性不在なので、一種クラブのような、フォーマルであると同時にリラックスした雰囲気だった。会話はオリファントの話から始まり、彼はドラマティックな内容の話を事も無げに語った。やがて、話はオリファントから別の方向に流れて行ったが、そこで、スウィンバーンを登場させる時だとミルンズは思ったようだ。そして、アダムズは今までに経験したことのない教えを得ることになる。彼が長い間求めていたものを見出したのだ。しかし、その時は何もわからず、ただただ驚くのみだった。同時に安堵したのも事実で、アダムズ以外の三人も彼以上に驚愕していたからだが、しかも彼らの驚きはそれだけでは済まなかった。それ以降はスウィンバーンの独演会で、ディナーが終わってからも、彼の長談義はますます奔放なものとなった。時は1862年であり、女性たちが居なくても、部屋における喫煙は禁じられ、客は厩舎か台所でのみ喫煙を許されたのだが、ミルンズは名だたる自由思考の人なので、アダムズの寝室で喫煙することを客に許可したのだ。何といってもアダムズはマナーに疎いドイツ系アメリカンの野蛮人なのである。それで、ディナーの後、全てのメンバーが椅子に腰かけるか寝転がってスウィンバーンの迸るような語りに深夜に至るまで耳を傾けたのだ。長い人生の中でも、これ以前も以降もこの時のスウィンバーンに迫るものはいなかった。巧みな話術や話術に長けた人物について耳にし、過去現在に至るまでのその記録を目にしてきたが、スウィンバーンが示した手本に最も近いと言えるのはヴォルテールくらいのものだろう。
スウィンバーンが彼の前にいる世慣れた三人の紳士たちにとってもこれまで出会ったことがない、極めて独創的な存在であり、法外にエクセントリックで、驚くべき才能に恵まれ、腹筋崩壊するほど愉快な人間であると見做しているとアダムズは了解したのだが、それ以上に彼が何者であるかはミルンズでさえ言い表せなかった。その驚くべき記憶力、古典、中世、そして近代をカバーする広範な文学的知識は信じられないほどで、ソフォクレスあるいはシェークスピアの劇を最初からあるいは終いから、さらには最初から最後まで暗唱してみせる能力、そして、それはダンテ、フランソワ・ヴィヨン、ヴィクトル・ユーゴ―にまで及ぶのである。スウィンバーンが未発表のバラード、Faustine、Four Boards of the Coffin Lid、Ballad of BurdensをまるでIliadを朗読するように誇張して表現力豊かに暗唱して見せても、皆どうしてよいかさっぱりわからないという有様だった。四人の聴衆の中でスウィンバーンを最も高く買っていた人物(ミルンズを指す)が「小川のほとりを彷徨いて」などのこぎれいな詩の作者で、それ以外の調子で書く気もなかったのはとても奇妙なことに思える。しかし、ミルンズは全てのことに共鳴する人で、その中には固すぎる頭を持った若者アダムズも含まれたのである。一方で、スウィンバーンは彼の前にいる人々とはおそろしくかけ離れた場所に居る存在でありながら、彼の詩、それ以上に彼のユーモアによって聴衆の心を一つにしたのだ。
The Education of Henry Adams
当時の世界的冒険家であるオリファントから、江戸末期の日本で攘夷浪士に襲われ、馬鞭を振り回して防戦した話を直に聴き、天才スウィンバーンに圧倒されながら、その才能の迸りをライブで楽しむヘンリー・アダムズの姿が目に浮かぶ。その時から40年経過してもその記憶は色あせていない。他の二人、モンクトン=ミルンズとスターリング=マクセルは政治家でもあり、文人でもあったのだが、こういう存在は、政治家が己の利益を度外視したステーツマンであった時代にこそ存在したのであって、ヘンリー・アダムズが『教育』を書いた19世紀末あるいは20世紀初頭の米国ではポリティシャンが優勢で、ステーツマンはほぼ絶滅危惧種であった違いない。このパッセージは、天才スウィンバーン、冒険家オリファントと共に文人政治家の存在を懐かしむものでもあるのだ。貴族が存在しない米国にあって、ヘンリー・アダムズは貴族に最も近いと言える家系の出身であり、また、広範な読書と人間関係で知性を磨いてきたので、多少面食らっていても、このような集まりの雰囲気を楽しむことが出来たのである。
ヘンリー・アダムズの『教育』は米国ユニークな知性派のこれも米国ユニークな反知性主義との闘いとも読めるし、南北戦争前後から第一次大戦に至る動乱の世代の記録とも読め、様々な人物との交流記とも、幾通りの読み方ができる奥深い本である。これからも折を見てその内容を介していきたい。惜しむらくは日本訪問に関する記述が『教育』からすっぽり抜けていることで、これに関しては他の文献などを参考にしながら触れていきたい。
(3)につづく