チャーリー・パーカー (その2)
全盛期のパーカーのコンボには若きマイルズ・デイヴィスがいて、御大にかなりのソロを取らせてもらっていたが、マイルズに限らず、パーカーは短い録音時間にそれぞれのメンバーに目いっぱいソロを取らせ、おかげで肝心のパーカーのソロが少ししか聴けないことになってしまうのだが、これはパーカーの方針だろうか、それとも、レコード会社のポリシーなのだろうか。マイルズのプレイに関しては、下手なのに頑張っているとか、未完成だと言う評価もあるが、そんなことはない。時折自信無げな演奏もあるが、専ら中音域で繊細なフレージングを積み上げていく個性的なもので、すでに後年のマイルズのスタイルが明らかだ。
後年、マイルズはパーカーについてこう語っている。「俺が本当に若くて、ジュリアードを出たばかりのころ、バードは、プレイして何かまずいと思ったら、もう一度、さらに二度、三度繰り返しそれをプレイしろと言った。そこでバードは大きな笑みを浮かべて、そうすれば、みんなお前がそのつもりで吹いていると思うじゃないかと言ったんだ。」パーカーはジャズに間違った音というものはなく、例え、妙な音を出しても、それから美しいものを作り上げることができ、それが即興演奏だと考えていたそうだが、マイルズにとっては「綱渡り」のようなものだった。パーカーのこういうやり方をsink-or-swim(のるかそるか)戦略というらしいが、マイルズの場合、結局、この戦略がうまく行ったわけだ。
サヴォイでは、Milestones、Little Willie Leaps、Half Nelson、Sippin’ at Bellsの4曲がマイルズのリーダーセッションとして録音されたもので、パーカーはアルトでなくテナーを吹いている。残念ながら快演というほどではなく、テナーを吹いたソニー・スティットにどこか似ている。スティットがテナーのパーカーを真似しているという声もあるのだが、単純に二人のテナープレイは似ているのだ。
ダイアル、サヴォイの録音は別テイクから中断されたものまでほぼ全てが世の中に出ており、別テイクが延々と続くのはうんざりするとの声もあるのだが、聴き方がある。
例えば、ダイアルに多いポピュラー曲の録音には、Out of Nowhere、All the Things You Are、Embraceable You、How Deep Is the Oceanなどがあり、最初のテイクはいずれの曲も一聴してその曲だとわかり、概ねそのテイクがマスターテイクとして発売されている。つまり、ポピュラーソングをわかりやすく演奏する方が「売れる」とレコード会社は考えたわけだ。しかし、どの曲も別テイクがあり、マスターテイクから順に聴いていくと、メロデイをフェイクしただけのほぼストレートな演奏からコード進行に基づいた即興演奏に変っていく過程がよくわかる。チャーリー・パーカーとしては、最初はレコード会社の方針通り演奏するが、それだけでは飽き足りないので、自分が満足するまでテイクを重ねるのだ。こういう場合は、変わっていくプロセスを楽しめばよく、テイク順に聴けばよいわけだ。ジャズマン、それもチャーリー・パーカーのインプロビゼーションに同じものはない。時々いわゆるクリシェ(cliche)あるいはシグネチャーフレーズと言うべきか、ペットフレーズのようなもので、これが出てくるとついつい同じようなプレイだと思ってしまいがちになるが、そうではない。
また、パーカーは他の曲から引用することでも有名で、クラシック音楽からポピュラー音楽、自分の曲からの引用も自由自在に行っている。パーカーが言うには、‘They teach you there’s a boundary line to music. But, man, there’s no boundary line to art.’、音楽に境界はないということだろう。彼はジャズプレイヤーだが、ジャンルにはこだわらず、例えば、カントリー音楽などもよく聴いていたそうだ。
また、こんなことも言っている。‘Music is basically melody, harmony, and rhythm. But people can do much more with music than that. It can be very descriptive in all kinds of ways, all walks of life.’音楽はメロデイ、ハーモニー、リズムが基本だが、それ以上の何かができれば、表現の可能性は広がるわけだ。
そして、自分の音楽については、’Every time I hear a recording I’ve made, I hear all kinds of things I could improve or things I should have done. There’s always so much more to be done in music. It’s so vast.’パーカーは自分の音楽に満足せず、表現の可能性を追求していたのだ。録音でテイクが多くなるのも当然だろう。
モダーンジャズと言えば、チャーリー・パーカーの名前が必ず出てくる。しかし、パーカーはさほど人気があるわけではない。
ジャズ喫茶ではパーカーのレコードがターンテーブルに乗ることはあまりなかったようだ。ハイファイを売り物にする昔のジャズ喫茶ではパーカーのレコードは音が悪いと見なされあまりかからなかった。それに、これはうろ覚えなのだが、昔、油井正一氏がジャズラジオ番組で、チャーリー・パーカーは難解なので、とっつきにくいのだと話していたように思う。岩浪洋三氏は、「わかりやすい」チャーリー・パーカーを聴いてもらいたいと、敢えてWith Stringsを推奨していた。しかし、Ko Ko、Klact-Overseds-Teneのパーカーも、ほぼ酩酊状態でLover Manをプレイするパーカーも、ストリングスを従えて快調に吹きまくるApril in Parisのパーカーも同じ一人のプレイヤーなのである。われわれにできることはチャーリー・パーカーがミュジシャンとして持つ多様な側面に付き合ってそれらを楽しむことではないかと思うのである。 しかし、チャーリー・パーカーの全盛期がもう5,6年遅ければ、ルディ・ヴァン・ゲルダ―あたりに録音してもらっていたのではとも思う。この点、マイルズは幸運だったな。Charlie Parker on Prestige、この方がCharlie Parker Plays Bossa Novaより数段いいことは確かだ。パーカーのボサノヴァも聴きたいがねえ。
Charlie Parker Plays Bossa Novaは村上春樹の『一人称単数』の中の一篇で、ある日ニューヨークのレコード屋でレコードを漁っていたら、このタイトルのレコードが出てきて、あまりに嘘っぽいので買わず、気になるのでしばらくしてそのレコード屋に行き、そのレコードが見当たらないので、店員にCharlie Parker Plays Bossa Novaがあったはずだがと聞いたら、お前はあほかと言う顔をされたというような話で、この短編集の中ではあまり面白くない話でした。面白くないと言う意味は先が読めてしまうということで、この点、一番面白いのは、Cofessions of a Shinagawa Monkeyだったかな。