ビックス・バイダーベック

 ジャズは、黒人奴隷の労働歌→ニューオリンズジャズ→スウィング→ビバップ→モダーン→クール、モードジャズ→フリージャズと進化していると思っている人もいるかもしれない。ニューオリンズとかスウィングジャズなんて真剣に聴くようなしろものではなく、客の好みに迎合したボードビルのようなもの、あるいは、ダンスミュージックじゃないかと思う人もいるだろう。しかし、ジャズに進化などというものはなくて、あるのは個性的なミュージシャンたちが繰り広げる個性的な音楽のみだ。もちろん、そうした演奏をする人間の数は限られているかもしれない。ホイットニー・バリエットの言うように、ジャズの魂と言うべき即興演奏の試練に耐え抜くのは並大抵のことではないのだ。

 また、ジャズが進化したと錯覚するのは、録音機器と技術の進歩によるところもあるだろう。正直言って、1920年代、30年代初期の演奏を聴くのは慣れが必要だ。すべての音が忠実に録音されているわけではないので、音楽を缶詰にしたような、どうしても物足りなさが残るのだ。現在の技術でデジタル化するにしても、原盤が運よく見つかればいいが、そうでない場合は保存状態の良いSP盤から起こさねばならない。SP盤とは、Wikipediaによれば、シェラックという、ラックカイガラムシ(ムシかい!)、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質を素材とする78回転のレコード盤のことで、これは割れやすく、また摩耗するので(蓄音機の針は金属性が一般的だったが、摩耗をできるだけ抑えるため竹製もあった)、ダメになったレコード盤が何枚も家にあり、貴重なものもあったかもしれないが、それらを持ち出しては近所のガキどもと川沿いの原っぱで、「円盤だ!」とか叫びながら、サイドスローで投げて遊んでいたのを思いだす。レコード盤は落ちるとパリンと割れた。割れたものを持ち帰った記憶はない。しかし、ムシからできたものだから有機物で、土に還ったかもしれない。そのSP盤を、現代の機器ではなくポータブル蓄音機で聴いたことがあるが、多少のノイズはともかく、音そのものには精彩があり、CDで聴くより魅力的だった。あれはフランク・シナトラのMy Funny Valentineだったかな。この曲についてあらためてネットで調べたら、今は、チェット・ベーカーがまず出てきて、次がマイルスだった。違うでしょう。ボーカルならシナトラ、インストルメンタルならマイルス、ビル・エヴァンスとジム・ホールのデュオもいいし、スタン・ゲッツとJ.J.ジョンソンのオペラハウスのライブも捨てがたい。しかし、この歌の歌詞はひどく、相手を散々けなして、それでも俺の女でいろと言っているヤクザのセリフのようだと思っていたら、もともとは女性から男性に向けた歌で、しかもヴァースが付いていて、その歌詞を見ると、全く違うニュアンスだった。

 録音と言えば、1920年代のものを聴くと、チャカポコとなんとも情けないリズム音が聞こえるが、録音機器も技術も未発達で、初期には、ドンと大きな音をたてると録音の針が飛ぶので、リズムセクション(コントラバスなし)の音がまともに採れない時もあったのだ。バカでかいラッパに向かって録音する機械録音式からマイクで音を拾う電気式録音への移行はすでに20年代半ばから始まっていたが、それでも繊細な音を十分に拾い上げることはできなかった。だから、この時代の録音で素晴らしいと思える演奏は本当にいいものだ。さらに、当時としては録音レベルが抜きんでていたRCAビクター原盤などから起こしたものを聴くと、ニューオリンズやスウィング時代のミュージシャンの実力がわかる。ソロイストのみでなく、リズムセクションの動きも実にしなやかだ。この辺の音源は以前ビクターからLPのボックスセット「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」のタイトルでシリーズ化され(監修は、油井正一、粟村政昭、大和明の御三方なので、セレクションが悪いはずがない)、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ライオネル・ハンプトン、ベニー・グッドマン、ジェリー・ロール・モートンのものなど今も持っている。ただ、すべてが傑作かと問われたら、そうだとは言えない。レコード会社の営業方針に従ってもっぱら聴衆の受けを狙った陳腐なものも中にはある。しかし、良いものはまさにジェムで、ガラス玉とはすぐに見分けがつく。また、ガラス玉であっても、じっくり聴くとそれなりに聴きどころがあり、持つべき価値はある。この中にビックス・バイダーベック(Bix Beiderbecke)の録音をまとめたセットがあった。

 ジャズ録音初期の偉大なミュージシャンと言えば、多くの人はルイ・アームストロングを想起するだろうが、白人のコルネット奏者ビックス・バイダーベックは同じくらい重要なプレイヤーなのだ。彼は28歳でまさに夭折してしまった。したがって、今聴ける彼の音は1924年から30年にかけての短い間に録音されたものだ。その中で彼の代表的録音は何かと質問されたら、その答えに、Singin’ the Blues, I’m Coming, Virginia, Way Down Yonder New Orleansの3曲は含まれるだろう。中には、ビックスがピアノを弾いたIn A Mistを挙げる人もいるかもしれない。私の好みを問われたら、いわゆるコレクティブ・インプロビゼーションが聴ける曲をまず選ぶ。1950年代末にバリエットは集団即興演奏がほぼ絶えつつあると書いているが、そんなことはないし、残された録音の中でも燦然と輝いている。ビックス・バイダーベックについては、アンサンブルは基本的に集団即興演奏なのだが、そこにおけるビックスのプレイは、ある言葉を引用すると、‘He stands out like a flame-red dress in a crowd of grey flannel suits.’つまり、「グレーのフランネルスーツの集団の中の真っ赤なドレスのように際立つ」わけだ。しかし、それだけではない。ビックスがいるとグレーのフランネルスーツの連中も赤く染まっていくのだ。

Singin’ the Blues

I’m Coming, Virginia

Way Down Yonder New Orleans

In A Mist

 ビックス以外のバンドのメンバーには、レスター・ヤングが手本としたCメロディサックスのフランキー・トランバウアー、クラリネットのピー・ウィー・ラッセル、ジャズギターの開祖的存在のエディ・ラング、そして初期には、ジミー・ドーシーがクラリネットとアルトを吹いたりしているが、メンバーの詳細が不明のセッションも多い。ビックス以外のソロに関しては、エディ・ラングのギターが印象的なくらいで、特筆すべきものはない。ボーカルが入るものもあるが、実に非個性的なもので、髪を真中から分けてポマードで固め、コールマン髭を生やした白人男性が歌っているのがすぐに連想でき、実にコーニーである。例外はMississippi Mudで、ビング・クロスビーのボーカルはさすがに一味違うし、もちろんビックスも良い。

Mississippi Mud

 ビックスの真骨頂と言うべき、コレクティブ・インプロビゼーションをリードする演奏としては、1927年10月の同じ日に録音されたAt The Jazz Band BallRoyal Garden BluesJazz Me Bluesの3曲を聴いてもらえば良い。アームストロングとは対照的に、中音域の範囲にとどまりながら曲のメロディーとハーモニーの探求に重点を置き、ロジカルで腑に落ちるフレーズを次々に紡ぎ出す。注目すべきはその音で、録音では完全に再現できていなくても、直に聴いた人々によると、padded mallet striking a chimeまたはpearls falling onto velvetと形容される。「マレットで鐘を叩いた」あるいは「ベルベットの上に落ちる真珠の」音というわけである。

At The Jazz Band Ball

Royal Garden Blues

Jazz Me Blues

 このころの白人ジャズバンドの弱点はリズムセクションの弱さにあるだろう。(ルイ・アームストロングのホット・ファイブ、ホット・セブンにはベイビー・ドッズやズティ・シングルトンがいた)また、ドラム以外のリズム源としては、ギターはともかく、バンジョー、バス・サックス、チューバなどだから、ステディで強力なリズムを刻むのは難しく、特に、コントラバスが不在なのは痛い。ステディなリズムに支えられていないので、ビックス以外のソロイストはふらつきがちだが、ビックスはそのクリーンな音とすぐれたリズム感覚でリードし、演奏に一本筋が入るのだ。Clarinet MarmaladeOstrich WalkRiverboat Shuffleは集団即興とソロでビックスの輝かしい演奏が聴ける。また、リズムセクションも好調で、シンバルの音が小気味よく響く。

Clarinet Marmalade

Ostrich Walk

Riverboat Shuffle

 ビックス・バイダーベックは、演奏中常に下を向いて足元に目をやる姿勢で、ハイノートを吹いて客を喜ばすようなこともしなかった。マイルス・ディヴィスに似ている。マイルスが真似たのだろう。また、彼が活躍した時期はちょうどコルネットからトランペットへの移行期で、ルイ・アームストロングは早々とスイッチしたが、ビックスは新しい楽器に興味を示さなかった。トランペットと音域は同じながら、よりまろやかで柔らかい音のコルネットはビックスのプレイにぴったりなので、当然だろうな。

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