コールマン・ホーキンスについて(1)‥‥ザ・ニューヨーカーより 6

 1959年にザ・ニューヨーカー誌(6月27日号)に掲載されたホイットニー・バリエットの音楽評を紹介したい。レスター・ヤングと並び2大テナー奏者と称されたコールマン・ホーキンスについて書かれたものだ。()は私が付け加えたテキトーなコメントです。

「即興演奏はジャズのコアと言ってよいものだ。しかし、即興演奏は厳しく容赦ない技で、それこそ毎晩、事前の準備もなしに、定められたテーマにのっとり、しかもある種の制約の範囲内で独創的な音楽を創り出し、情緒と知性、形式と内容、トーンとアタックの完璧なバランスを一瞬のうちに生み出すことを演奏者に求め、そして何よりも聴衆の心を満たし、楽しませることが出来て初めてうまくいったと言えるものなのだ。即興演奏と言ってもその方法、やり方はさまざまで、ルイ・アームストロング、ヴィック・ディキンソン(Vic Dickenson Showcaseは好きなアルバム)のメロディを装飾するやり方、これと似てはいるがより込み入ったレスター・ヤングのテーマに基づいた即興演奏、コールマン・ホーキンスそしてチャーリー・パーカーのコード進行に基づく即興演奏、さらには、セロニアス・モンク、ソニー・ロリンズによって推進されているリズム・テーマ・コードの3つを巻き込んだ即興演奏などがある。くわえて、ニューオリンズのアンサンブルのような集団即興があり、見事なまでに入り組んだいわば手作りの技なのだが、残念なことに、ほぼ失われつつある。しかし、その後裔とも言うべき対位法はジョン・ルイスとチャーリー・ミンガスの手によって人気を得ているのだ。偉大なる即興演奏は滅多に起こることがない大爆発のようなものだ。一方で、拙い演奏は、実際にはすでに存在するアイデアの再演あるいはその模倣であり、即興演奏とは言えないのだが、それが実に多い。不安定だが支配的な芸術というようなものはもはや存在しない。実際に、才能がありながら20代、30代、あるいは40代に亡くなるか枯渇してしまうジャズミュージシャンは薬やアルコールではなく即興演奏の容赦なき焦熱地獄の犠牲者であることは疑いない。それゆえに、アームストロング、ディキンソン、ホーキンス、バック・クレイトンそしてモンクのごとき頂点を極めた老練な即興演奏家たちはとりわけ畏敬の念に値するのだ。彼らは想像力豊かな名匠であり、さらには驚くべきマラソンランナーなのである。おそらくこのユニークな面々の中で最も屈強な存在はホーキンスだろう。彼は今54歳だが、ハーディング大統領の時代(1921~1923年)にマミー・スミスのジャズハウンズのメンバーとしてやってみせたのと同じ斬新さ、バイタリティ、説得力ある演奏を続けているのである。」

Django Reinhardt& his Ameridan Friends
(Out of Nowhereは収録されていない)

 コールマン・ホーキンスは言わずと知れた大物だが、その最盛期は1930年代から40年代前半だと思っていた。確かにこの期間の、Body and Soul、ジャンゴと組んで行ったStardustOut of Nowhereなどのソロは、思わず口ずさみたくなる軽やかな音と独特の間のレスター・ヤングのものとは違い、音が次から次へと湧き上がってきて、しかもそれが他の楽器を挟むことなく間断なく続くもので、このころのレコーディングスタイルとしては画期的なものだ。レスターの演奏を軽やかでインティメートと表現すれば、ホーキンスは頑健で圧倒的だ。そして、レスターと同じく歌心に満ちている。レスターもホーキンスもよく歌うのだ。バリエットの文章を続けよう。

Coleman Hawkins Body and Soul (1939)

Django Reinhardt& his Ameridan Friendsより Stardust

「実際、ホーキンスは超の字がつくほどのジャズミュージシャンなのだ。彼は大胆極まりない創作者であり、熟達した即興演奏者であり、ジャズの新しい運動の主導者であり、休むことなく常に発展し続ける演奏者なのである。短躯で、お洒落、そして物静かで、ごくたまにだが、微笑むと、まるで内側から突然灯りが点いたような気持にさせる。また、彼はサックスでジャズが演奏できることを最初に示した人で、それまでこの楽器は主に甘ったるい音を出すため専用(a purveyor of treacle 「糖蜜のまかない屋」とはねえ)だったのである。ホーキンスの演奏は自信と豊かなイマジネーションに満ち、1930年代半ばにはサックス演奏における2大流派の一つを作り上げたのだ。(もう一つの流派は、そのリーダーであるレスター・ヤングのプレイが独特すぎるため、メンバーが少なく、さらに後になって登場した。)、最近になって現れた者の多くは他の影響によってやや純度が薄まっているが、ホーキンスの流れに属するプレイヤーにはハーシェル・エヴァンス(カウント・ベイシー楽団でレスターと並ぶ二枚看板だったが、早世した)、チュー・ベリー、ベン・ウェブスター、ドン・バイアス、ハリー・カーネイ(エリントン楽団では専らバリトン・サックス)、ジョニー・ホッジス(ホッジスがホーキンスの影響を受けていたとは)、ラッキー・トンプソン、チャーリー・パーカー、そして、ソニー・ロリンズがいる。1939年にホーキンスは、あるレコーディングセッションの際に、付け足しのようにBody and Soulを録音したのだ。それはほぼ不可能なことを成し遂げた。つまり完璧な芸術である。そしてその数年後、Sweet LorraineおよびThe Man I Loveをこれ以上ないほどに作り変えることで、この成功を繰り返したのである。ジャズマンは有名になるほどに守りに入り、新しいものを忌避するものだが、ホーキンスは違い、常に独創的なものの動きに注意深く耳を傾け、その結果、オフィシャルなものとしては初めてのビバップの録音セッションを1944年に行ったのである。このセッションには、ディジー・ガレスピー、マックス・ローチ、そして故人となったクライド・ハートが加わっていた。それからすぐ、ホーキンスは、ほぼ無名のセロニアス・モンクを同じく重要なレコーディングに起用した。その後、ホーキンスは不可解な衰えを示し、第一線からほぼ退いていたのだが、1950年代初めに突然全く新たなスタイル(ホーキンスにとっては3番目の)を引っ提げて返り咲きを果たしたのである。そのスタイルのすべてを包み込むような熱っぽさは彼よりも数十歳も若い人間のエネルギーを感じさせる。」

 ホイットニー・バリエットは大げさな形容詞を使わないのだが、ことホーキンスに関しては結構多用している。まあ、それに相応しいプレイヤーなのだろう。この後、ホーキンスの演奏スタイルの変化(進化)について触れた文章が続くが、その部分は割愛して、実際の演奏について具体的に述べた箇所を訳してみたい。モーツァルトのピアノコンチェルトでもそうだったが、安易に形容詞を使わずに音楽を言葉で表現するのは至難の業だが、バリエットが得意とするところだ。しかし、翻訳は難しい。実際にホーキンスの音楽を聴いていなければ、さらに難しくなるに違いない。

(その2につづく)

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