ヴァイオリンという楽器とシゲテイ‥‥ザ・ニューヨーカーより 5

 著者であるウィンスロップ・サージェントは、トスカニーニが常任指揮者を務めていた時代のニューヨークフィルでヴァイオリンを弾いたプロのヴァイオリニストだったが、ニューヨーカーによれば、「サージェントはクラシックのコアのレパートリーには精通していたが、現代音楽に関心がなく、音楽評で同誌の他のジャンルに匹敵する寄稿者が登場するのは1972年のアンドリュー・ポーターまで待たねばならなかった」とある。

 楽器としては、ヴァイオリンにはいくつかの弱点がある。まず、ヴァイオリンは楽器としてそれだけでは不十分なものなのだ。バッハの独奏ヴァイオリンソナタのようなごく少数の例外はあるが、ヴァイオリンはオーケストラあるいは少なくともピアノの助けを必要とするのである。ヴァイオリンのために書かれた偉大な協奏曲は1ダースもなく、ヴァイオリンがピアノ、ハープシコードと対等に振舞う偉大なソナタの数も大したことはない。さらに言えば、数ある楽器の中でもヴァイオリンは最も扱いにくいもののひとつだ。弓のバランスが不均等で、十分に制御されなければ、先よりも根元の部分で弾くと音が大きくなり、音階が不適切に上昇あるいは下降したり、強まったりすることで微妙なフレージングを歪めてしまいがちなのである。良いヴァイオリニスト(つまり、音楽的なヴァイオリニストのことだ)かどうかは、ヴァイオリンの持つこの癖を克服し、微妙な旋律表現の原則に従わせることができるのか、その技量でおおよそ判断すべきなのだ。残念なことに、良いヴァイオリニストといえる者の数は非常に少ないのである。


 ざっくりだが、今の時代のヴァイオリン演奏は言ってみれば蠱惑的ヴァイオリニストが主流となっている。私がこの言葉を使う理由は、彼らの演奏で伝わるものが表面的仕上げ感(女性映画スターの非の打ち所がないメイクアップのごとく)で、それが特徴なのである。例を挙げると、ハイフェッツ氏、エルマン氏、ミルシテイン氏は、甘美なトーンとこの楽器の歴史上かってないほどのレベルの機敏で正確な左手を生み出した。しかし、私は彼らにさほど関心を持てないのだ。なぜかと言えば、表面的にはいかに輝かしくとも、彼らは、曲に秘められた深い劇的かつ情緒的なものを十分に理解した上で演奏することがほぼないからである。

 彼らは、チャイコフスキーやグラズノフのような作曲家の手になる華やかな協奏曲でこそ素晴らしい輝きを放つが、演奏スタイルの純粋さと精妙さが求められるシンプルなモーツァルトのソナタはその力の及ぶところではない。もちろん、華麗とは言えないまでも、音楽的に感受性の豊かなヴァイオリニストは大勢いる。その多くは弦楽四重奏のメンバー、交響楽団のコンサートマスターなのだ。しかし、真のヴィルトゥオーソであれば備えるべき個性、勢い、才気に欠けるという問題がある。現在の弦楽器の演奏についてつらつら考えてみるに、弦楽器の分野で真に人を満足させえる芸術家は、ヴァイオリン奏者ではなく、チェリストのパブロ・カザルスであるという結論に至るのだ。

 なるほど、シゲテイとジョージ・セルのピアノによるモーツァルトのヴァイオリンソナタを聴けば、サージェントの言いたい事が納得できるのだ。しかし、ハイフェッツだって、いわゆる大公トリオの演奏など見事なもので、ヴァイオリン奏者としてのサージェントの好き嫌いがあるようだ。結局、何を弾くかの問題かな。

 以上述べてきたことは、先週木曜日にニューヨークフィルと行われたヨゼフ・シゲテイのアルバン・ベルク作曲のヴァイオリンとオーケストラのためのコンチェルトおよびバッハのヴァイオリン協奏曲ト短調の演奏を論じるための前書きのようなものだ。シゲテイ氏は華麗なヴァイオリニストではない。大柄なシゲテイ氏はかがむ様な姿勢でヴァイオリンを弾き、時折、ヴァイオリンからきしむような音や警笛のような音を出す。ハイフェッツ氏のごとき圧倒的な洗練さとも無縁である。しかし、メカニカルな問題はともかく、氏は私の好むヴァイオリニストなのである。弓がいかに扱いにくくとも、それによって氏の正しいフレージングが影響を受けることはない。音の美しさを意図してそれに溺れることもない。曲の真髄を理解し、それを伝えることに専念し、旋律輪郭の強調とその細部へのきわめて入念な気配りによってそれを成し遂げているのだ。シゲテイ氏の演奏に耳を傾けると、ヴァイオリンを聴いていることを忘れ、音楽そのものを耳にしていると感じるのである。

 清澄かつ古典的なバッハのコンチェルトとベルクの現代的で表現主義の作品の2つを並べた当日のプログラムはシゲテイ氏の資質の試金石としてこの上ないものであった。最初の作品の氏の演奏ではところどころ音がやや痩せ気味だったが、2つの曲の演奏を通じては、すばらしい音楽的洞察を示し、曲それぞれが持つ音楽的色彩をあますことなく示し、2曲を隔てる200年間におけるバイオリンスタイルの変化を明らかに示してくれた。指揮者のディミトリ・ミトロプーロスはオーケストラの演奏者とシゲテイ氏の関係をこのうえなく緊密に保ち、特にベルクのコンチェルトにおける独奏者とオーケストラのコラボレーションは今年の音楽シーズンの中で最も記憶すべき出来事となったのである。

Winthrop Sargent The Violin and Szigeti  December 24, 1949

 これを読んだ後シゲテイのCDが他にないかと探したが、出てくるのはハイフェッツ、ムターなどばかりだった。サージャントが保守的な批評家であるかどうかはともかく、その文章が音楽を聴きたい気持ちにさせることは確かだ。

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