コールマン・ホーキンスについて(2)‥‥ザ・ニューヨーカーより 6

 さて、肝心のレコード評の部分に移ろう。1959年に市場に出たコールマン・ホーキンスの2枚のレコードについてである。

「やや精彩に欠ける部分があるものの、バック・クレイトン、ハンク・ジョーンズ、レイ・ブラウン、それにドラマーのミッキー・シーンが加わった一番目の録音(The High and Mighty Hawk、1958年録音)はホーキンスが生み出した秀作の一つである。ここには、ブルースが1曲、オリジナルが3曲、そして、スタンダードが2曲含まれる。心地よいミディアムテンポで奏でられるブルース(Bird of Prey Blues)はまさに文字通りの名演である。冒頭のアンサンブルの後で、ホーキンスはいつもと変わらずさりげなく独白に入り込んでいく。それは絶え間なく17コーラスにも及び、その一つ一つのコーラスはまったく違うものながら、それぞれがあるべき箇所にすっとはまっているとの感じを与えるのだ。3つあるいは4つの音符を徐々にだが絶え間なくロジカルに展開し(最初の5コーラス)、モダーンテナーのジョン・コルトレーンの演奏のややパロディ風回想を行い(10コーラス)、途方もない迸りと(11および12コーラス)、そしてエモーションの発露(15および16コーラス)、ホーキンスの今の演奏の良いところのすべてがここにある。

 これは驚くべき即興演奏だ。You’ve Changedの演奏も完璧さではひけをとらない。曲はスローバラードで、10年くらい前のホーキンスなら派手に吹きまくったかもしれないが、今回はそのような扱いを受けることなく、1コーラス半にわたってメロディを慎重に探るようにゆるやかに奏で、曲が本来持つ心地よさを愛でながら、そこかしこにわずかに手を加え、情感豊かに温かみとリリシズムをしみ込ませていくのだ。とりわけバック・クレイトンとレイ・ブラウンの演奏が素晴らしい。実際、ブルースにおけるブラウンの長いソロは、急速な装飾音、拡張された休止、テンポを半分に落としたフレーズを巧みにミックスさせたもので、ホーキンスのソロを凌駕するほどであった。

 二番目のもの(Coleman Hawkins Soul 1958年)には内容にふさわしいタイトルが付けられている。ホーキンスの伴奏を務めるのは、ギターがケニー・バレル、ピアノはレイ・ブライアント、ウェンデル・マーシャルがベースで、ドラムはオシー・ジョンソンだ。曲は7曲で、その多くはブルースナンバーだ。最も長尺の曲(Soul Blues)は非常にスローなテンポで、ブルースフィーリングが横溢し、情感たっぷりのトレモロ、ゴスペルのリズム、にぎやかなロック&ロール、そして叫ぶようなブルーノートに満たされ、スローなブルースのまさに典型であると同時にそのカリカチュアでもあるものとなった。ホーキンスは冒頭近くで短いが哀調を帯びたソロを取り、その後1コーラス吹くのだが、これが並み外れたもので、静かでムーディな詠唱のようなフレーズの後に突然びっくりするような嘆きを発し、それは地獄の底から発せられた息のように聞こえるのである。ジャズのレコードでこれほど心をかき乱す瞬間はいまだかってなかった。(実は、この曲を聴いたのはこの文章に接してからで、なんでもっと早く聴いておかなかったのかと思う。)このレコードで最も短い曲はこれとは似ても似つかないもので、16世紀の曲であるGreen Sleevesを最高のレベルで現代に蘇らせたものだ。ホーキンスのプレイはメロディを修飾するだけのものだが、限りなく哀愁を帯び、ブルースのフィーリングに満ちているので、曲が終わる前にホーキンスがダウンしてしまうのではないかとひやひやさせられる。ところがその後すぐに、ホーキンスは己の30数年にわたる演奏の経験を探りながらこの曲を即興演奏におけるゲティスバーグアドレスのようなものに変えてしまった。忘却されることがない言葉となったのだ。(確かに、クスリでフラフラになったチャーリー・パーカーが吹いたLover Manを思わせるところがあり、その連想からバリエットは「倒れる」と感じたのかな。)」

The High and Mighty Hawkより Bird of Prey Blues

The High and Mighty Hawkより You’ve Changed

High and Mighty Hawk

 ここで紹介されているホーキンスの演奏はほとんどYou Tubeで視聴可能だ。もちろん、音のみだが。The High and Mighty Hawkは好きなアルバムで、大昔だが、コリドー街にあったレコード屋で偶々見かけて買った。今でも持っている。上の文章には出てこないが、2曲のスタンダードのうちのもう一曲、My One and Only Loveもいい。余談だが、今はナウい(死語か)店がひしめき合っているコリドー街は昔、表通りに派手な店がなく、小さなバーが路地にある、どちらかと言えばひっそりとした感じの場所だった。新橋側に抜けるところに「機関車」という比較的大きなバーがあって、奥にある巨大なテーブル席が名物だったが、すぐ満席になってしまうので、焦って会社を出たものだ。

The High and Mighty Hawkより My One and Only Love

 ジャズの話に戻る。特に50年代のコールマン・ホーキンス、ジョージ・ウェットリング、ヴィック・ディキンソンなどのプレイヤーを称して「中間派」というのだが、私はこの名称が嫌いである。もともと米国ではメインストリームジャズと称されていたのを大橋巨泉が「中間派」と訳したとのことだ。たぶん、スイングとモダーンの中間に位置するとのニュアンスだろうが、ジャズが好きな人間にとって、このような分類は無用だ。私は良いと思えばなんでも聴くので(ドイツ人のフリージャズは苦手だが)、iPodにはビックス・バイダーベック、アームストロング、ライオネル・ハンプトン、エリントン、バド・パウエル、レスター・ヤング、チャーリー・パーカー、マイルス・ディヴィス、ロリンズ、ビル・エヴァンス、クリフォード・ブラウン、メル・トーメ、エリック・ドルフィー、サラ・ヴォーン、チュー・ベリー、アート・ティタム、トミー・フラナガン、ベニー・グッドマン、スタン・ゲッツ、アート・ペッパー、チェット・ベーカーとなんでもありだ。ビックス・バイダーベックのSingin’ the Bluesの後にコルトレーンのMy Favorite Thingsが出てきても何の違和感もない。むしろ、そこが面白い。以前紹介したホイットニー・バリエットの文章で引用されていたナット・ヘントフの言葉を一部借用して、「中間派なるものは存在しない。他のジャズと何ら変わることはないのだ。」と言いたい。