ウィンスロップ・サージェントのグールド評‥‥ザ・ニューヨーカーより 2

『ザ・ニューヨーカー 10年の物語』

 ニューヨーカーに掲載された短編小説、様々なジャンルに関わるコラムなどを集めて10年ごとに時代を区切ってまとめられたものが『ザ・ニューヨーカー 10年の物語』である。今までに1940年代、50年代、60年代の三冊が上梓されている。それぞれにその時代を代表、体現する文章がある。 例えば、40年代のものでは、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』が異色だ。このルポルタージュは大戦直後の1946年にニューヨーカー一冊丸ごと使って掲載された。原爆投下を是認する当時の風潮の中で広島にハーシーを派遣し、その上被爆者の姿にこれだけ迫ったルポを掲載したニューヨーカー誌の英断を称えるべきだろう。しかし、一方で、『硫黄島のDディ』のような日本人をJapと呼んで憚らない記事もある。
 40年代の書評も大変面白い。エドマンド・ウィルソンが探偵小説について述べたものがあり、オーウェルがグレアム・グリーンの『事件の核心』について論じ、W.H。オーデンがT.S.エリオットの本を評し、1949年に出版されたオーウェルの『1984年』も当然ながら書評の対象となっているのである。

 音楽評では、主にクラシック音楽を受け持つウィンスロップ・サージェントの1958年3月22日に行われたグレン・グールドのカーネギーホールでのコンサートの評が掲載されている。そのタイトルは『癖のある男』(Man with a manner)だが、mannerは流儀という意もある。その一部である。

 「ニューヨークに住むコンサート愛好家にとって当地のコンサートの開催は数多くかつ重なるという問題があるため、新進気鋭のカナダ人ピアニスト、グレン・グールド氏の演奏に接するのは先週カーネギーホールで行われたニューヨークフィルの演奏会が初めてだった。グールド氏のレコードはそれまでにかなり聴いていており、そのすべてが類まれな才能の芸術家の手になるものと感じさせたが、彼がその才能を聴衆の前で発揮する際に見せた光景までは予想できなかった。その光景とは、控えめに言っても、普通の演奏者の舞台上のマナーと比べて風変わりなものだった。まず、グールド氏は、やせて背が高く、ややぼさぼさ髪の、ひどく真面目な顔つきの若い男性であり、極めて低い腰掛に座ってピアノに向かい、そのピアノが何インチかジャッキアップされているので、鍵盤がほぼ彼の顎の辺りの高さまで来ていた。
 ピアノを弾いていない時は、のけぞった姿勢で、その長い手を床に向けて気だるそうにだらりと下げていた。ピアノに向かっている時は、まるでジュージュツでピアノをねじ伏せようとしているように見えた。グールド氏は足を高く持ち上げてピアノを押しのけ、拳で叩き、ピアノの注目をそらそうとするかるかのように仰々しい動きでフェイントをかけ、ピアノがまるで熱いストープであるかのごとく後ずさりし、片方の手がピアノを弾いている時にもう片方はそれに合わせて調子を取り、聴衆の耳には届かなくても、演奏の初めから終わりまで低い声で口ずさんでいたのは見て明らかだった。
 立ち上がって挨拶をする際は、幾分ぎこちないがさりげなくオーケストラに会釈し、演奏会全体がまるで田舎のダンスパーティーのひとつのエピソードに過ぎないと言うかのように、「まあ、なんてこたあないよ」という感じで肩をすぼめてみせた。

 グールドがピアノの椅子の脚を切って低くしていたという話は聞いたことがあるが、さすがに演奏会場のものを切るわけにはいかなかったのだろうか、ジャッキ・アップとは面白い話である。

 これが意図的な自己顕示であると片づけるのは容易いが、あの晩にこのパフォーマンスを幾分楽しみながら観て、ピアノから流れ出る音に耳を傾けた結果、グールド氏の振る舞いは彼のパーソナリティの真摯な表現であるとはっきり言える。
彼は間違いなく独創的な人物で、独創的な人物に対しては、その人物がしたいとおもうようにさせるべきなのである。グールド氏が、己の音楽的アイデアの表現のためにそのような姿勢が必要と思うなら、例え逆立ちしても結構だと私は思うのである。しかし、実際のところ、このような肉体的に派手な要素が聴衆の耳に入り込むことは全くない。
 その逆で、彼のバッハ:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調(BWV1052)の演奏は筋が一本通り、抑制され、洗練された音楽的趣味の傑作と言えるものであった。
 グールド氏は非常なピアノ技巧の持ち主であり、例えそれがいかに型破りなものであっても、これによって我々が第一級の名手に期待するスピード、繊細さ、対照そしてニュアンスの妙技のすべてを発揮することが出来るのだ。また、グールド氏は極めて鋭い洞察力の持ち主である。それは彼のクリーンかつ明快なフレージング特性にはっきり表れており、さらには、人を惹き付けて止まない男性的力感、また、強い説得力はグールド氏の音楽芸術に対する造詣の並々ならぬ深さを示すものだ。
 25歳の若者にこれらの特質が備わっていることは非常に素晴らしいことであり、私は、グールド氏の今後の演奏家活動に大いに期待しているのである。
 グールド氏は、バッハのコンチェルトを弾き終えた後、それまでと負けず劣らずの熱情と真摯な姿勢でシェーンベルグのピアノ協奏曲に取り組み、それは、完全にとは言わなくても、ある程度までは、この曲の無味乾燥な数学的公式に音楽的意味のようなものがあることを私に納得させたのである。私が十分には納得できなかったとしても、それはグールド氏の非ではない。これがより聴きがいがある曲であれば、グールド氏の演奏は実に雄弁であったと私は評したであろう。」

(ウィンスロップ・サージェント ザ・ニューヨーカー 1958年)

 ウィキペディアによれば、「デビュー盤としてバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。同作は、ハロルド・C・ショーンバーグのような大御所批評家からも絶賛され、ヴォーグ誌やザ・ニューヨーカー誌といった高級誌もグールドを賞賛した。」そうである。上に抜粋した文章はその評価の一つのというわけだ。グールドがチャート上でルイ・アームストロングと争うとは、1950年代の音楽は素晴らしいねえ。 
 グレン・グールドのアメリカにおけるコンサートデビューは1955年で、1964年には一切コンサートを行わないと宣言したので、コンサートで観客が生身のグールドとその音に接したのは10年に満たないわけだ。

 今回、それぞれに関する文章の一部を紹介したテッド・ウィリアムスもグレン・グールドも共に孤高の天才とされる人物で、存命中は毀誉褒貶が激しく、メディアが彼らに付き合うのは難しかっただろうが、二人ともそのプレイを通じて人々を楽しませ、感動させ、立派な記録と作品を残した。

 さらに、彼らを愛し、評価した人々がいて、ここに引用したような名文で彼の姿を生き生きと語り、我々はそれを読み楽しむことが出来る。これも素晴らしいことですな。

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