チャンドラーのモーツァルト GSさんに答えて

 GSさんのブログ記事「チャンドラーのモーツァルト」で意見を求められました。
   GS’s blog チャンドラーのモーツァルトその1 その2

 私の見解は次の通りです。

 “I play the piano a good deal,” he said. “I have a seven-foot Steinway. Mozart and Bach mostly. I’m a bit old-Fashioned. Most people find it dull stuff. I don’t.”

 “You’d be surprised how difficult some of that Mozart is,” he said. “It sounds so simple when you hear it played well.”

「原文のI’m a bit old-Fashioned. 清水訳は「頭が古くてね」、村上訳は「昔のものが好きなんだ」。清水訳では自分が古いのであるが、村上訳では自分ではなくモーツァルトなどが昔のものだから好きだ、となる。原文に近いのは清水訳だろうが、どちらがいいのだろうか。私には判断がつかない。」

 村上訳です。「頭が古くてね」は言い過ぎです。原文にはa bitがあるでしょう。これは「ちょっとね」ということで、軽い表現です。ポピュラー音楽の話であれば、「懐メロが好きなんだよ」とでも訳せるでしょう。「自分は古い人間なんだ」ということより、「趣味がちょっと古い」程度の意味だと解釈すべきでしょう。

“Too heavy. Too emotional. Mozart is just music. No comment needed from the performer.”

まず原文のheavy、チャンドラーの意図はどこにあるのだろうか。実際にルービンシュタインの弾くピアノの音自体が「重い」と言っているのか、得意としたショパンなどに見られる感情移入の奏法を「重い」と言っているのか。清水訳は後者のように解釈したのか、村上訳は前者か。断言できない。」

 too heavyの後に、too emotionalが来て、このemotionalはheavyとはどのようなことなのかを説明しているわけで、つまり音が重いのではなく、「重い、つまり感情が入りすぎる」ということですね。その意味では、清水訳の「感情が入りすぎる」でもいいのですが、「感情」という言葉はかなり個人的な要素を含むので、「情緒」が相応しいでしょう。

「また このMozartをどうとるか。清水訳のように「モーツァルトは純粋な音楽」とするとものMozartはモーツァルトの音楽だけになる。一方村上訳の「モーツァルトはそれ自体が音楽」とすると、それはモーツァルトの音楽を超えてモーツァルトという現象全体を内包するように思えてくる。私は村上訳に一票入れたいと思う。」

 “Mozart is just music.”の意味するところは、「モーツァルトの音楽はそれ自体で完結しているのだ」ということでしょう。「モーツァルトはそれ自体が音楽」というのはあまりロジカルではない。単純に取れば、「モーツァルト=音楽」ということになってしまいますからね。その意味では、どちらの訳も不十分です。

「もう一つ、原文のcommentであるが、村上訳はそのまま「コメント」、清水訳は「解釈」である。私は「コメント」が正しいと思う。あえて日本語にするなら「注釈」だろうか。コメントという言葉を素直にとれば、音楽に対する演奏者の恣意的な表情づけ、過度なルバートやデュナミクスなど音楽そのものへの付加物であり、曲の本質を読み取ることから出発する「解釈」とは違った概念であろう。チャンドラーがいらないとしているのは「解釈」ではなく、そのような「コメント」のことだろう。」

 これは村上訳ですね。「注釈」で「解釈」ではない。つまり、チャンドラーは、余計なものは要らないのだと言いたいのでしょう。

“but not weak, Mozart, all right. I could see that.”

「清水訳はストレートである。村上訳の最後の「言い得て妙だ」、警官の手の動きから「モーツァルトだ」と喝破しているのはマーロウであり、この文を記している(ことになる)のも私、すなわちマーロウである。したがって村上訳はマーロウの自画自賛となり、ちょっとまずいのではと思う。」

 村上訳は言いすぎです。「言い得て妙」は、「うまいことを言う」という意味ですから確かに妙です。
清水訳の「私にはよくわかった」はストレートな訳ですが、適切です。

 村上春樹の訳はマジメですが、私は清水訳の方が余韻を感じます。文芸に限っての話ですが、日本語としては訳しすぎない工夫も必要ではないか、とも感じます。
 字幕というものは話して演技する役者を観客が観ているとの前提で作るのだと思いますが、そうだと必ずしもすべてを言葉で表現することはなく(字数が多いと観客がどちらを見ていいのか混乱しますからね)、勘所で止めるものではないかと思います。文芸作品の特に会話の部分は、少なくとも日本語として自然であることを心がけるなら、多少はしょっても許されるのではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です