『目くじら社会の人間関係』を読んで漱石を考える

《「世間」の暴走は止められないか》

 この著書の趣旨をまとめると、

講談社α新書
『目くじら社会の人間関係』

明治以降の急速な官製近代化すなわち西欧化(脱亜入欧)によって士農工商の身分制度に基づく伝統的共同体が解体されるとともにその共同体における明確な掟(準拠枠)が失われる一方で、西欧をモデルとした個人の形成は日本では歴史的必然性がないため行われず、その個人の存在を前提とした社会も形成されていないため、伝統的な共同の観念である「世間」が行動の新たな準拠枠として登場し、1990年代後半のグローバル化(新自由主義の台頭)によって未形成の個人が行き場を失ってさらにバラバラになったため、準拠枠としての「世間」の力が増大、凶暴化し(同調圧力が強まる)、日本はバッシングが横行する「目くじら社会」と化した。

ということになるだろうか。日本には自立した強い個人が存在しない。自立していないから第三者の意見に動かされやすい。これは日本の社会が十分に近代化(西欧化)されていないためであり、近代化されないと、問題は解決できないため、結局、著者が提案するのは、暴走する「世間」がもたらすものとして列挙された害悪それぞれに対する対処療法的対応しかない。

 これには異論がないわけでもない。イシューにもよるが、世論の暴走にはマス・メディアが世論を生産し、拡大させる面もある。どんなに些細なことでもメディアが取り上げ社会に晒すと、それは「問題化」するのだ。マス・メディアのアジェンダセッティング機能は軽視されるべきでない。この本で取り上げられた大半の問題はゴシップ大好きな日本のマス・メディアで繰り返し取り上げられたために深刻化したとも言える。人間関係が希薄になって対人間コミュニケーションが弱まったその隙にマス・メディアが入り込んでくるのだ。最近ではSNSの問題もある。この点にも留意して論じるべきではないか。また、日本の自殺率の高さを取り上げ、「他人に迷惑をかけるな」という同調圧力により危害のベクトルが他者に向かわず自分に向く結果自殺者が多くなると述べているが、これも対人間コミュニケーション、人間関係の希薄化に一因があるのではないか。一方で殺人が少ない点に関しては、個の意識が強すぎるあまり怒りが外に噴出し大量殺人やテロが頻発する西欧のマイナス面も強調すべきだと思う。さらに、コロナ下にあって日本人の「他人に迷惑をかけるな」という意識が高いマスク装着率となって表れ、低い罹患率の一因となっていることにも注目すべきだろう。

《ユーロ・セントリズムの問題》

 ユーロ・セントリズム(eurocentrism)という言葉がある。西欧中心主義で、何事も西欧を基準に物事を視る姿勢を称し、単純に言えば、西欧は進んでおり、その他のエリアは後れていると見做す。ギリシャ、ローマを源とする西洋文明が中世に一時停滞したものの発展を続け、あまねく世界にその影響を及ぼすに至ったというのである。この考えは西欧のみではなく、日本にも根強い。明治維新で近代化つまり西洋化を目指した日本は、西欧の物質文明とともに哲学、思想、芸術などありとあらゆるものを貪欲に吸収した結果、西欧を先生の如く見做すようになった。第一次大戦後から始まった欧州の凋落、今世紀に入って著しい米国の影響力の低下などと相まって本家本元の欧州においてさえ西欧中心主義は薄れつつあるのだが、日本では相変わらず西欧コンプレックスが強く残る。
 なぜユーロ・セントリズムを云々するかというと、この本の著者には「合理的な西欧社会」に対して「非合理な日本社会」を後れたものとみなす考えがあるからだ。例えば、多神教的な日本人の宗教観を一神教のそれと比較して「呪術的」とし、日本の社会を俗信、迷信がはびこるもの断じているところにそれが表れている。
 さらには「「告解」の歴史がないため個人が形成されてこなかった」、つまり、日本には西洋的な意味における「個人」が存在しないと言っている。つまり、著者の考える個人とはきわめて西欧的な存在なのだ。西欧的な個人主義は、国家と対立するキリスト教的伝統の下で生まれた西欧の概念であって(特にカトリックの影響が強いと言われている)、その普遍性には疑問が呈されているのだが、それが日本で同じように発展するのは無理な話であり、著者もそう考えている。
 最初に関係性がありその関係性の中で自己を形成する日本人の「個人」(和辻哲郎の「倫理学」)は、個人を前提に関係性を作る西欧の「個人」とは前提に隔たりがある。
 人間の根幹が共同体にあるとすれば、つまり、共同して生きる、共同しなければ生きられない存在であるとすれば、共同体にとって個人はどのようなものであらねばならないかを考えるべきだが、それには幾通りの代替案があってしかるべきで、西欧流の個人はその一つに過ぎない。

《夏目漱石の「個人主義」》

 夏目漱石は江戸時代最後の年(慶応3年)に生まれ、明治に育ち、大正5年に亡くなった。日本近代化の最中を駆け抜け、「世間」、「社会」、「個人」の間の葛藤を実生活でも創作上でも経験した人物であり、最初に「洋化」した日本人の一人でもある。その漱石が留学先であったイギリスについて、「あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。」(『私の個人主義』)と個人主義の行き届いたイギリスを称賛しながら、再三「私は英吉利を好かないのです」と述べているのが面白い。イギリス流の個人主義を評価しながらも、日本人としてはしっくりいかないものを感じていたのだろう。           
 漱石は、日本の近代化には封建的秩序を支えた儒教道徳からの解放が必要と見做し、儒教道徳に代わるものとして「個人」を本位とする「自然主義的道徳」を唱え、「自己の個性の発展を仕遂げ」ることが大切と説いている。漱石は個人主義者なのだ。一方で、漱石は、個人主義が「利己主義」に陥る危険性も十分了解していて、「道義上の個人主義」を主張し、その三か条を掲げた。 第一に、自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それ に付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示 そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。(『私の個人主義』)つまり、正義(他者の個性の尊重)、義務、責任の三つの観念を導入して利己主義との区別を図っており、その主張は、他者(社会)との関係を前提に組み立てられていると言えるだろう。漱石はこうも言っている。「今後の日本人にはどういう資格が最も望ましいかと判じてみると、実現できる程度の理想を抱いて、個々に未来の隣人同法との調和を求め、また従来の弱点を寛容する 同情心持して、現在の個人に対する接着面の融合剤とするような心がけ―これが大切だろうと思われるのです。」(『文芸と道徳』)
 『私の個人主義』と『文芸と道徳』は岩波文庫の『漱石文明論集』に収められているもので、『目くじら社会の人間関係』を読みつつ、そういえばどこかに夏目漱石の個人主義論があったなと本棚を探して見つけた。ずいぶん前に買った本で、たいして読みもせずに本棚に突っ込んでおいたのだが、あらためて読んでみて、夏目漱石は偉大な文人であると同時に偉大な批評家でもあったことがわかった。

2021年10月24日 発表

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