『君たちはどう生きるか』を再読する~透けて見える時代性~(4)

最後に:問題提起こそこの本の狙いだと気が付いた

 などなどと、ここまで批判的に書いてきたのだが、気が付いたことがある。
 この本で最も印象に残るのは、叔父さんの解説でもなく、水仙の話でもガンダーラの話でもない。冒頭にコペル君がデパート屋上から見下ろして「自分は分子」だと気づく場面、浦川君がいじめられ、北見君がそれをやめさせようと行動する場面、容赦ない上級生の制裁行為と北見君たち三名がそれにじっと耐える場面、この三つだ。

 冒頭のコペル君が屋上から見下ろす行動は、読者がそれを真似すれば、読者もコペル君と同じく「自分は一分子なのだ」と実感できるに違いない。コペル君の「変な経験」を追体験できるのだ。
 いじめの場面と制裁の場面、特に制裁の場面は著者の筆力がいかんなく発揮され(著者の特高体験が生かされているようだ)、いじめのいやらしさ、強者の暴力行為のおぞましさを読者にダイレクトに伝える力がある。

 この三つの場面は著者の問題提起の場面でもある。「社会的存在としての自覚」、「社会における貧富の差の矛盾が生み出すもの」、「有無を言わさぬ権力の行使の恐ろしさ」がその三点だろう。この問題提起が生々しく読者に伝われば、この本は十分にその役目を果たしたと言えるのではないか。そして、問題提起された内容は時代に左右されず、今日に至ってさらに深刻化して、問い続けられなければならないものだ。                                       

 この問題提起に付随したコペル君の行為とそれがもたらした教訓はいわばおまけのようなもので、いくつかある選択肢のうち「コペル君はこうした」というものに過ぎない。むしろ、うまくいかなかった例として示したのかもしれない。コペル君が自分の弱さを見つめ、新たに出直すのはうまくいかなくてもまだチャンスはあるのだという著者のメッセージだろう。    
, しかし、肝心なのは、読者が著者の問題提起を受けて、「自分ならこうする」と思うかどうかがなのだ。著者の最後の言葉「君たちは、どう生きるか」は、コペル君はこうだったけれど、君たちならどうしますかという問いなのだ。

 最後にもう一つ気が付いたことがある。先ほど、叔父さんがコペル君の経験にダイレクトに言及せず、トピックをすり替えているのではないかと書いたが、実は、叔父さん(著者)は、「いじめを見過ごすな」とか「一緒に制裁を受けて、無言の抵抗姿勢を示せ」などの安易な回答を与えるのを避け、読者に自分が経験したらどう行動するのかを考えさせたかったのではないか。ここで、一つの回答を与えてしまうと、読者は「その通りだ」と判断して、自分のこととしては考えないかもしれない。どうも、このように考えた方が良いのではないかと思うようになった。実は、叔父さんは「油揚事件」の後の手紙で、事件そのものに対する論評をしなかったにも関わらず、「何が君をあんなに感動させたのか」、「山口君をやっつけている北見君を、浦川君が一生懸命とめているのを見て、どうして君が、あんなに心を動かされたのか」とコペル君(読者)に質問しているのだ。答えを与えず、考えさせることに徹しているわけだ。

 少年少女たちに倫理を説く。このような著作は何時の時代にあっても必要とされる。しかし、何が正しいか、何をしなくてはならないのかという議論は常にその著作が書かれた社会、時代を反映するもので、われわれはその社会と時代を理解したうえで、時代的なものを「取り除き」、その後に何が残るかを吟味して読まねばならないのではないか。そして、社会、時代に関わりなく読むに値する内容を持つものがいわゆる古典ではないかと思う。

 そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。『君たちはどう生きるか』は古典でしょうか。

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