『君たちはどう生きるか』を再読する~透けて見える時代性~(3)

「世界は自分中心に回っていない」人間分子の法則と言う気づきがありながら、「自分がいい人間になる」との自己中心的な倫理観に落ち着いてしまうこと

異分子間のあつれき、つまり社会問題が個人の問題にすりかえられている

 制裁を加えた上級生たちは、結局、制裁された側の親が乗り出すことによって、学校から処分を受けた。いわば、子どもの喧嘩に親が出てきて、強引に決着をつけたわけだ。小さな権力はそれを上回る力によって制圧されたのだ。しかし、制裁を加えようとする者とそれに抵抗する者の間、つまり、人間異分子間の問題は何一つ解決されていない。制裁の話が出てきたところで、読者の多くは、北見君を中心とした主人公分子と上級生分子の間の衝突を主人公グループがどのように克服し、解決に至るか、そのストーリー展開を期待するのではないか。ところが、ストーリーはそのような展開を見せず、逃げたコペル君とコペル君が反省し友人たちとの和解に至るストーリーになってしまっている。横暴な権力と闘う話が矮小化されてしまっていると思うのは私だけだろうか。結局、「人間誰でも誤りを犯すことがある。肝心なのは、その誤りを認め、それを克服することである」が導き出されたモラルだが、これでは、子供時代のワシントンが「お父さん、僕が桜の木を斧で伐りました」と告白する話と同じありきたりの道徳話の結論のようではないか。小学生くらいの児童が主人公ならこれでも良いが、少年と青年の間にあり、社会化の過程にある中学生たちが主人公であり、逃げた、反省するしないの個人的な問題ではなく、社会における矛盾、矛盾が生み出すコンフリクトの問題などを追求したならば、さらに奥深い展開になったのではないかと思う。

 実は、コペル君ではなく、コペル君を善導すべき叔父さんの態度が問題なのだ。「油揚事件」では、叔父さんは「いじめ」の問題を「貧乏人に対する態度」の問題にすり替え、「雪の日の事件」では「横暴なプチ権力」の問題に触れることなく、コペル君が日和ったことのみ問題としている。叔父さんは人間分子の間(社会的)の問題を個人の問題にすることで当時の社会が生み出した矛盾、暴力の問題をあえて回避しているのではないかとの印象さえ受ける。

 結局、様々な事件を経て、コペル君が決意したことは、「自分がいい人間になって、いい人間を一人この世に生み出す」ことなのだ。「人のために何かをする」ことではない自己中心的な倫理だと言っても良いのではないか。

時代を反映したメッセージ

 この本が最初に出版された社会をまともに論じることもできなかったに違いない時代を考えれば、例えば、「他者のために何ができるかを考えよ」といったメッセージは戦前、戦中では「自己犠牲」を強いるメッセージにも聞こえ、著者として発しにくいものであったのではないか。一方で、「自分が立派な人間になるために努力する」ことはどのように取られても「間違いのない」メッセージだ。結局、著者としてはここに落ち着かざるを得なかったのではないかと思う。

(4)へつづく