『君たちはどう生きるか』を再読する~透けて見える時代性~(2)

コペル君が始めから終わりまで行動しない「傍観者」であり、基本的に叔父さんの意見によって動かされている存在であるために、その「発見」と「成長」に実感が乏しいこと。

 この物語は、コペル君が周囲で起こる出来事を見聞きし、その感想を叔父さんに伝え、叔父さんがそれに注釈を加え、アドバイスすることで、コペル君に気付きが与えられ、成長するという展開で進行する。コペル君が自分でなぜだろうと考えることもあるのだが、大抵、答えがその一歩手前の段階で叔父さんによって与えられるので、コペル君自身が答えを求めて思い悩むことはたいしてなく、コペル君が本当に思い悩むのは「雪の日の事件」で何もしなかった自分に対してなのだ。

コペル君は人を俯瞰できる立場にいる

 コペル君の亡父は大きな銀行の重役、父親が亡くなった後、「郊外の小ぢんまりした家」に引っ越したが、「ばあやと女中」がいる家庭で育ち、学業は、「今度も首席」の優秀なおぼっちゃま。そのコペル君が分子である自分に気付くきっかけは、デパートの上から下を見下ろして、雨の中を車の間を縫って一生懸命自転車のペダルをこぐ少年(どこかの小僧さん)を見つけた時だ。コペル君はデパートと言う特別な場所のそれも屋上から下を見下ろしているのだ。コペル君が人々を俯瞰できる立場にいることを表す象徴的なシーンと見ることもできる。コペル君が「自分を浦川君より一段高いところに置いているような、思い上がった風が少しもないのに、実は大変感心していた」と叔父さんに褒められるが、思い上がらなかったのはコペル君が「率直なよい性質をもっていたから」で、本来コペル君はそう思って然るべきポジションにいるわけだ。つまり、主人公であるコペル君のポジションにも時代的反映があるのだ。            

 ただし、コペル君は中学生であり、社会のヒエラルキーに組み込まれる以前の段階で、しかも彼が通っている中学校には金持ちの子弟もいるが豆腐屋の息子もいるわけだから、見下ろされる側にも近い位置にいるのだ。また、コペル君は仕事をしなくても食っていける社会の特権的階級の人間ではない。現代の社会で言えば、中の上だろう(それでも、英国の階層分類を借りれば、Grade Aクラス、日本には「職業分類」はあっても、厳密な「階層分類」はない)。だから、上から見下ろしつつも、通りで頑張って自転車をこぐ小僧さんに共感出来、小僧さんが分子であり同じく自分も分子であると感じることが出来たのだろう。                                         

 作者が作者がコペル君をこのような立場の人間として位置付けた理由は何だろうか。一つは、この本が出版された時代はおしなべて日本が貧しく、子供であってもその境遇が大きく異なっていたために、このような本を買ってもらい読める余裕があるのは識字率の高い階層の子女に限られていたためだろう。そして、主人公として、様々なできごとを経験して気づきを得るだけの個人的素養、素直に物事を見て、感じる善良で無垢な人柄が必要だったこと、さらには、主人公に、当事者として事件に深く関与せず、何が起きているかを叔父さんに伝える役割(コペル君のキャラクター描写が北見君や浦川君に比べて控え目なのはこの役割ゆえかも)を演じさせる狙いがあったのかもしれない。結局、この本の肝はコペル君の成長する様と同時に、コペル君の経験を分析し、アドバイスを与える叔父さんの手紙の内容にあるとも言えるのだから。

事件の最中にあってコペル君は行動せず、事件の当事者にもならない

 「傍観者」であるコペル君は驚くほど行動しない。不条理なものに対して声を上げ、戦うのは彼の周辺にいる友人たちなのだ。

〈「油揚事件」のコペル君〉

 中学校のクラスの同級生である豆腐屋の息子、浦川君が同じく同級生の山口(君付けでなく呼び捨てにされている)にからかわれ(常習的に行われているいじめ)、それに憤慨した陸軍予備役大佐の息子、北見君が山口をなじり、その挙句取っ組み合いになる。「そこまではコペル君も延びあがってみることが出来ました」、「コペル君も立ち上がって、駆け付けましたが」、北見君が山口を組み敷いて、まだなぐろうとするのを、いじめの被害者である浦川君が必死で止める光景を目撃するのみだった。取っ組み合いが突然勃発したにしても、そこに至るまでの浦川君に対する山口とその子分のねちねちとしたいじめをコペル君も見ているはずだが、彼は終始傍観者で、北見君がしたように浦川君をかばうための行動は起こさなかった。 

 この事件の報告を受けた叔父さんは、コペル君がいじめる側の山口に組せず、浦川君に同情していることを褒めているが、これは悪いことをしなかったことはとりあえず良いと言っているのであって、相手が大人ならいちいち褒めるほどのことではない。伯父さんは褒めたが、いじめに加担しないのは心ある中学生として当然のことで、一方、コペル君が一部始終目撃しながらそれを傍観していたことは感心したことではない。しかし、この点について叔父さんはスルーしてしまい、コペル君も「動かなかった自分」に対して良心の呵責を感じていないようなのだ。電車の中で、乗車して来た老人に席を譲ろうか逡巡しているうちに、乗客の誰かが行動して席を譲ったのを見て、ちょっと安心することもある。しかし、同時に、自分がまず行動すべきだったとも思うのではないか。クラス内のいじめはこれとは比較にならない深刻な問題で、心に与えるインパクトはより大きいはずなのだが。

 しかし、後になって、「雪の日の事件」の後に熱を出して寝込んでしまったコペル君に母親が自分の体験を語って聞かせる箇所(重い荷物を持って石段を上がる老婆を手助けしなかったことの後悔)があるので、いじめ事件当時の啓蒙される前のコペル君の心はこうしたことを感じて行動するには幼すぎたのだと言えないこともない。

〈「雪の日の出来事」のコペル君〉

 この日の出来事はより深刻だ。時勢と先輩としての権力を笠に着た上級生が気に食わない者(北見君といじめ男の山口)に対する制裁を企み、その噂を耳にした北見君、浦川君、水谷君、それにコペル君の四人は、浦川君の提案で、「なぐられるなら、一緒になぐられようと」非暴力の抵抗をすることに決める。

 上級生(リーダー黒川)と北見君たちの衝突は偶発的に始まる。誤って上級生が作った雪だるまをこわしてしまい、上級生たちはこれを絶好の機会と北見君に制裁を加える。浦川君と水谷君はその間に入り北見君をかばう。上級生は、仲間は出て来いと挑発するが、コペル君は臆して前に出ることが出来ない。北見君、浦川君、水谷君の三人はよってたかって雪の玉をぶつけられる。コペル君は、「なに一つ抗議せず、なに一つ助けようとはしないで、おめおめと見過ごしてしまった」のだ。

 仲間を裏切ったコペル君は激しく後悔し、傍観者の苦しみを経験するが、そのあまり高熱を出して寝込んでしまう。実にひ弱な坊ちゃんなのだ。熱が下がったコペル君は叔父さんのアドバイスもあって北見君に許しを乞う手紙を書く。ここでコペル君が勇気を出して行ったことは手紙を書くことのみで、後は待つことしかできないのだが、手紙は功を奏し、コペル君と北見君たちはあっけなく和解する。勇気を出して許しを乞うほうよりも寛大に許しを与えるほうが偉いと思うのだが、北見君たち三人はこのことをあまり深く気に留めていなかったらしい。つまり、仲間分子は仲間には寛大なのだ。

 「いじめ事件」の後、叔父さんが、いじめに加担しなかったことは偉いと見当違いの褒め方をせず、「いじめを傍観していたことは加担したのと同じである。なぜ動かなかったのだ」と叱っていれば、コペル君は違った行動をとっていたかもしれない。最初の事件からの学習が不十分だったのだ。コペル君を立派な人間に仕立てる責務を負った叔父さんには反省してもらわねばならないだろう。

 コペル君はいじめの対象にも上級生の暴力行為のターゲットにもならない。常に当事者ではないのだ。「雪の日の出来事」では当事者になることも回避してしまった。
 結局、コペル君は成長して、心優しく賢い大人にはなるだろうが、世の中の矛盾を肌で知っている浦川君、猪突猛進型の行動派の北見君(ブルドッグのような)、コペル君と似て慎重派だが活発な姉の影響を受けて行動を起こす水谷君の方により可能性を感じる。                       

 勿論、コペル君のこの態度は、「大義の為なら暴力的行為も許される」当時の日本の風潮に対する著者の姿勢の表れ(そうならば、浦川君の態度と行為の方がぴったりくるのだが)と読むこともでき、この本は、無垢でか弱い魂の成長の物語として読むのが真っ当なのであって、わざわざ斜めに読むことはないのだが、「雪の日の出来事」に戦争当時の知識人の態度を読むことも可能ではないか。結局、横暴な権力に対して何もできない知識人は自らの行為を恥じ、反省し、許しを請うわけだ。コペル君を、こうした「動けない」知識人を象徴するものとして読むこともできる。

 いずれにせよ、常に傍観者で、自ら行ったことは許しを乞う手紙を書いただけのコペル君が、いかに立派な叔父さんのアドバイスをもらったにせよ、本当に成長することは可能なのか、成長したのは、自ら行動し、暴力に非暴力で立ち向かい、さらに、逃げたコペル君に寛大な態度を示した北見君、浦川君たちではなかったのかとの疑問を抱かせ、結局、コペル君は叔父さん(著者)が言いたいことを言うためのきっかけ作りの存在に過ぎなかったのでは思わせる。
 もちろん、「辛い経験が人の成長をもたらす」という考え方もあるのだが、「傍観者の苦しみ」は自分が作り出した手前勝手な苦しみであって、成長に繋がるものではないだろう。

(3)へつづく