ホフスタッターの陰謀論とパラノイド・スタイル(6)

陰謀論とパラノイド・スタイルの本質を見極める

 ここからホフスタッターはパラノイド・スタイルの基本要素について詳述しているので、エッセンスを紹介しよう。

「ここで、パラノイド・スタイルの基本要素を抽出しようと思う。イメージの中核にあるのは、大きく、邪悪な陰謀の存在であり、巨大であるが捉えがたく、人々に影響を及ぼすからくりが始動し、われわれの生き方を蝕み、破壊するというものである。歴史的に見て陰謀は存在するので、その存在に注目することがパラノイドであるとは言えないとの反論もあるだろう。確かにその通りだ。すべて政治的な活動は戦略が必要で、戦略が有効性を発揮するためには一時的にでも秘される必要があり、秘密にされたものはしばしば多少の誇張をもって陰謀と称されることがある。しかし、パラノイド・スタイルで特徴的なのは、その提唱者たちが歴史のそこかしこに陰謀を見出すことではなく、「広大」あるいは「巨大」な陰謀が歴史的出来事の「推進力」であると見做すことなのだ。歴史は陰謀なのである。それはほぼ超絶的と言ってよい勢力の凶暴な力によって発動され、それを打ち破るためには政治的な駆け引きでなく、全面的「聖戦」が求められるのだ。パラノイド・スタイルを代表する人々は終末論的観点で陰謀の成行を見る。彼は全ての世界の誕生と終末、すべての政治組織、そして人間の価値のすべての体系に通じた人物なのである。彼は文明を守るためのバリケードを設置する。彼は常に転換期にいて、陰謀への抵抗を組織するのは今しかなく、時間は常に足りないのである。至福千年を信じる者の如く人類最後の日々を生きる者の不安を口にし、具体的な終末の時を決めることもする。」

「一般人にとって明白なものになる以前に陰謀の存在を感知できる能力を持ち、常に先頭を進むパラノイドは闘争的な指導者であり、有能な政治家がそう見なすように社会における葛藤が調整可能であり妥協点が見いだされるものとは考えないのである。問われるのは絶対善と絶対悪の間の戦いであり、求められるのは妥協を厭わないことではなく、最後まで戦い抜く意思なのである。完全なる勝利以外は意味がない。敵は完全なる悪であり、宥めることなどできないのだから、根絶されねばならず、例えこの世界から消滅させるのは無理でも、パラノイドが心を傾ける戦いの舞台からは消えてもらう必要があるのだ。無条件な勝利を求めることは絶望的に多くを要求し、非現実的な目標設定を行うことに繋がるのだが、パラノイドの目標はどのように見ても達成不可能であり、結果的に常に失敗し、それがパラノイドの挫折感をさらに高めるのだ。部分的に成功したとしても当初から感じていた挫折感がそのまま残り、そして、彼が対峙する敵の巨大さと恐るべき資質をあらためて実感させることになるのである。」

 ここで思い出されるのは、認知的不協和論で有名な社会心理学者レオン・フェスティンガーの研究だ。その研究はWhen Prophecy Failsというタイトルで出版された。地球外の存在の啓示を受けた教祖が荒唐無稽な予言(終末論)を繰り返し、予言は当然外れるのだが、信者の結束は予言が外れるたびに強まるのだ。非現実的な予言は当然実現しないのだが、その度に味わう挫折感が次に向かわせるのである。終末論的予言そのものは避けようがない運命に関するもので、克服すべき直接的な「敵」は存在しない。メンタリティは同じだが、この点が陰謀論とは異なるのだ。とにかく、陰謀論には「敵」の存在が不可欠で、その「敵」についてホフスタッターは次のように述べている。

「敵の姿ははっきりとしている。それは悪意の塊であり、不道徳な一種の超人で、邪悪で、至るところに姿を現し、強大な力を持ち、冷酷無比で好色、そして奢侈を好む者だ。われわれ一般人とは違い、広大な歴史の網の中で生きることがなく、自身の過去、欲望、そして弱点の影響を直接的に受ける者なのである。彼は自由で、活発に動き回る悪魔の手先である。歴史の過程を自ら作り出そうと欲し、実際に作り出し、あるいは、まともな歴史の歩みを邪悪に捻じ曲げる。危機を招来し、銀行の取り付け騒ぎを起こし、経済不況をもたらし、災害を作り出し、己が生じさせた人々の苦しみを享受するのだ。この意味で、パラノイド的歴史解釈は極めて個人的なものであり、ある決定的出来事は歴史の流れの一部分ではなく、ある人間が意図したものの結果なのである。敵はある強力な力の源を持つものとして描かれるのが常で、例えば、新聞を牛耳り、「手を加えられた」ニュースを通じて大衆の心を操り、無限の資金を有し、人々の心に影響を及ぼすための秘術(洗脳など)を持ち、人々を誘惑する特別な手立てを有し(カトリックの告解)、さらには教育システムにおいても牙城を築きつつあるのだ。」

 絶対的善と絶対的悪の二元論となっては、悪とは交渉の余地すらない。われわれ日本人が「敵」をここまで絶対的な悪として憎んだことがあるだろうか。少なくともこの悪の描写には大きな違和感がある。しかし、ホフスタッターの次の分析には説得力がある。「敵なる者は自己の投影」なのだ。敵は元々己の内にあったものなのだ。天使と堕ちた天使の悪魔は同根なのである。

「多くの場合、この敵なる者は自己の投影であると考えられ、悪は自身の最良なそして許容できない性状の両方を有するものとされる。パラノイド・スタイルの最大の矛盾点は敵なる者を真似ることである。

例えば、敵がコスモポリタンの知識人であるとしよう。パラノイドは敵を学識能力の面で、さらには衒学的な面においてさえ凌駕しようとするのだ。マッカーシー上院議員はその分厚い文書の束で情報に通じていることを誇示し、ウエルチ氏は反論しようがない証拠の積み重ねに拠り、ジョン・ロビンソンは彼自身があまり得意でない言語による文書を苦心して調べ上げることで、そして、反フリーメーソンはフリーメーソンの儀式に関する念の入った論議を果てしなく続けることによって、しかし、このすべては彼らの敵対者に対する暗黙の賛辞なのである。秘密結社と闘うために設立された秘密結社も同じように敵を褒め称える。クー・クラッスク・クランはカトリックを真似て法衣をまとい、念の入った儀式を展開し、込み入った階級制度を作り上げた。ジョン・バーチ協会はその「正面」グループによって共産主義のセルを模倣し、似て非なる秘密活動を行い、敵である共産主義者と酷似したやり方で徹底したイデオロギー戦争を説く。反共産主義の聖戦を唱えるキリスト教団体のスポークスマンは共産主義が喚起する献身、自制、戦略的巧妙さを手放しで賛美しているのだ。

しかし、手本にできるものではなく、完全に非難できることを担うのが敵の役割である。しばしば性的放恣が敵の特徴とされ、道徳的抑制の欠如、欲望充足のために有効な術など、これらがパラノイド・スタイルの唱道者が己の心の内の受け入れがたい部分を描き出し、それを公に表現する機会を与えるのだ。俗にカトリックの聖職者およびモルモンの長老には女性を特に惹き付けるものがあり、ゆえに放恣な行為に耽る特権があるとされ、さらに、カトリック教徒とモルモン教徒、後にはユダヤ人と黒人は禁じられた性的行為に耽溺しやすいものと見做されたのである。狂信者の妄想が強いサドマゾ的欲望のはけ口であることはまったく珍しいものではなく、その例は、まことしやかに描かれるいわゆるフリーメーソンの罰の残虐さへの関心に見て取れるだろう。」

 もう一つ重要なことは「変節者」を重視することだ。変節者は敵の秘密を知る者であり、組織の内部に居た者が行う秘密の暴露はストーリーにもっともらしさを加えるとともに、パラノイドに特有の秘密への執着を示すものなのである。

「これもしばしば現れるパラノイド・スタイルの特徴は敵対する主義からの変節者を格別に重要視するところだ。反フリーメーソン運動はしばしば元フリーメーソンが作り出したものではないかと思える時があり、フリーメーソン脱退者の曝露を最重要視し、過度に妄信するのである。反カトリックも修道院から逃げ出した尼僧や背教の聖職者を利用し、反モルモンは一夫多妻のハーレムから逃げた元妻、現代の先鋭的反共産主義の場合は元共産主義者を利用するのだ。ある意味、変節者が格別重要視されるのはパラノイド・スタイルに固有な秘密への執着に起因するとも言える。変節者は敵対勢力の秘密の世界にいた男性ないしは女性であり、懐疑的な世の中にあっては信用に値しない内容の疑惑の最終的存在証明を生み出す者なのである。しかし、変節者の重要視にはより深い神学的終末論が関わっているように思うのだ。

パラノイドが抱く世界的闘争の典型像は善と悪との精神的格闘技であり、変節者の存在は転向のすべてが悪の側によってなされるわけではないことの生きた証明なのだ。変節者は救いと勝利の約束をもたらす者なのである。」

「現在の右翼の運動においては、パラノイド的左翼からパラノイド的右翼に、両者に共通な二元論的原理(原文ではManicheanマニ教的)に固執しつつ、葛藤しながらも素早く立場を変えた元共産主義者が大きな役割を果たしている。こうした共産主義を熟知する者たちは古の異教徒からのキリスト教の改宗者を思い起こさせる。改宗後も彼らはその古い神々の信仰を止めたわけではなく、その神々を悪魔に転換させたと言われているのだ。

 ホフスタッターが次に述べるパラノイド・スタイルの特徴は陰謀論の言説を理解する上で役に立つ。それは、「弁護可能な仮定(すでにある程度共有されているもの)から始め、事実ないしは少なくとも事実と見做されるものを注意深く積み上げ、こうした事実を立証の必要がある特定の陰謀が存在するとの「圧倒的な」証拠へと導く」ことだ。しかし、積み上げた事実と陰謀の証拠の間には埋めることができない飛躍があることを忘れてはならない。

「最後に述べるパラノイド・スタイルの特徴はすでに言及した衒学的なもの、勿体ぶった知識のひけらかしに関わるものである。パラノイド・スタイルの文献で印象的なもののひとつは実証に対して過たず入念な配慮を示すことで、このことはほぼ変わることがない。この政治スタイルに固有とも言える法外な結論ゆえに彼らの論がすべて事実に沿ったものではないと思うのは間違っている。結論が本質的に途方もないものであるからこそ、信じるに足らないものが実は信ずべきものであることの「証明」を我慢強く探し求めるのである。もちろん、どのような政治的傾向にもあることだが、パラノイドにもその質に高、中、下の程度の差はあり、中世以来のパラノイド的運動はインテリもどき(demi intellectuals)を大いに惹き付けてきたのだ。しかし、まともなパラノイド的文献は数多くのパラノイドでない人々にも正しいと受け取られる道徳上の約束からスタートし、同じように注意深く、執拗なほどに「証拠」を積み重ねていくのである。パラノイド的叙述はまず十分に弁護が可能な意見の提示から始まる。反フリーメーソンたちにも何らかの理屈はあったのだ。とどのつまり、秘密の組織というものは社会の秩序(この秩序にあっては組織に対する義務は無効となる)に対してある程度の脅威となりかねない義務に縛られた影響力のある人々によって構成されるわけである。プロテスタントの個人主義と自由の原則にも理屈があり、北米国に等質な文明を築き上げたいとのネィティビストの願望にも一理ある。この時代でも、第二次大戦そして冷戦において過ちを問われてもよい決断が無数にあり、疑い深い人々がそれらの決断が善意の人々の単なる過失ではなく、反逆者の企てによるものだと信じることはそう難しいことではない。学識レベル上位のパラノイドが常套的に用いる手順は、そうした弁護可能な仮定から始め、事実ないしは少なくとも事実と見做されるものを注意深く積み上げ、こうした事実を立証の必要がある特定の陰謀が存在するとの「圧倒的な」証拠へと導くのである。このうえなく首尾一貫しているのだ。事実、パラノイドのメンタリティは実際の世の中より首尾一貫したもので、それは間違い、失敗、曖昧さを許容できないからなのだ。それは完全に道理にかなったものではないかもしれないが、きわめて論理的なのである。彼が信ずるところでは、敵は完全なる悪であると同時に疑いなく論理的な存在であり、敵に備わる絶対的な力に自身の力で対抗するためには、すべての事柄を説明し尽くし、敵を出し抜く首尾一貫した論にありとあらゆる事実を詰め込まなければならないのである。方法において学問的なのが最たる特徴なのだ。」パラノイド・スタイルを特徴付けるのは立証可能な事実の欠如ではなく(パラノイドは事実をとてつもなく欲するために、時にそれを捏造することもあるが)、出来事を詳述する際に常に肝心な場所で奇異な想像力の飛躍が生じることである。」

「パラノイド・スタイル真実味を感じる者にとって何がもっともらしく見えるのかと言えば、それは注意深く、入念かつ見かけは首尾一貫したディテールの用い方、ひどく現実離れした結論に対しても説得力のある証拠を苦心して積み重ねること、明白なものから信じがたいものへの大飛躍のために入念に手はずを整えることなのである。だが、奇妙なことに、ここまで苦労を重ね事実に基づく証拠を追い求めながら、通常の知的交流の場合のように彼のグループ以外の外の世界との双方向のコミュニケーション行動に及ぶことがないのだ。とりわけ彼の見解に懐疑的な人々とコミュニケーションすることはないのである。

パラノイドは彼が示す証拠が敵対的世界を納得させる希望をまったく持っていない。証拠集めの努力は己の受信能力を閉ざし、己のアイデアの補強に繋がらない邪魔な見解に接することを防ぐ、言わば防御的性質を帯びている。必要な証拠は揃っている。彼は情報を受け取る者ではなく、あくまで情報の発信者なのである。」

ホフスタッターの陰謀論とパラノイド・スタイル(7)に続く