ホフスタッターの陰謀論とパラノイド・スタイル(4)
米国の陰謀論史 ②反フリーメーソン
ジェディディア・モールスは「米国地理学の父」と称され、電信機を発明したサミュエル・モールスの実の父親。その息子で電信機の発明者も奴隷制擁護者、移民排斥運動のメンバーだった。おまけに、イエール大学の総長でさえ陰謀論の流布に加担したとあって、米国における宗教的パラノイア現象の根の深さがわかる。地域的にイルミナティ陰謀論の影響は限定されていたが、次に来た反フリーメーソン運動はかなり本格的なものだった。
「1820年代後半から1830年代にかけての反フリーメーソン運動は陰謀論を取り入れ、それをさらに拡大した。一見して、この運動はババリアのイルミナティに対して発せられた以前の抗議の声の繰り返しあるいは延長線上にあるように見えた。」
「しかし、1790年代のパニックはニュー・イングランド地方におおむね限定され、極端な保守主義に結びついたものだったのに対し、後の反フリーメーソン運動は合衆国の北部のかなりの地域に影響を及ぼし、さらに、大衆民主主義、農村部の平等主義と親和性が強いものであった。反フリーメーソンは反ジャクソン流民主主義でもあったのだが、両者は、普通の市民の機会が閉ざされるという恐怖感、ジャクソンの合衆国銀行の改革運動に見られるような貴族的な体制への強い憎悪で共通していた。
反フリーメーソン運動は、当初は自然発生的なものだったのだが、すぐに変動激しい党利党略政治に悪用されるに至った。数多くの人間が運動に加わり、また運動を利用したが、その多くは当初反フリーメーソン運動が持っていた感情を共にしていなかった。その例として、この運動の根底にある偏見に対して微温的な共感にとどまっているにも関わらず、政治家としては無視できないという理由で幾人かの著名な政治家の支持を得ているのだ。とはいえ、民衆運動としては相当な勢いがあり、運動の勢いに弾みをつけた農村部の熱烈な支持者たちはそれを心から信じていたのである。」
ジャクソン流民主主義いわゆるポピュリストの第7代大統領アンドリュー・ジャクソンはフリーメーソンだった。その肖像画がトランプ前大統領の執務室に飾ってあった。ジャクソンはインディアン掃討で名を挙げた男で、強権を振るうことで知られ、大統領になってからもインディアンを強制移住させ、土地を収奪することに力を尽くした。アレクシ・ド・トクヴィルは移住させられるアメリカ原住民のパセティックな姿を実際に目撃し、深く同情している。トクヴィルはジャクソンに実際に会った上で、「ジャクソン将軍は、アメリカの人々が統領としていただくべく二度選んだ人物である。彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない。」と評価している。さらに、なぜこのような男が大統領になれるのか、その理由を分析しているが、これが興味深く、機会があれば触れてみたい。
「そもそもフリーメーソンに対しては相当な疑いが抱かれており、それはイルミナティに対する悪感情が残っていたせいかもしれない。いずれにせよ、反フリーメーソン運動は1826年にウイリアム・モーガンなる人物の謎の失踪によってさらに勢いを増した。モーガンはニューヨーク州西部に住む元フリーメーソンであり、結社の秘密を暴露する本を執筆中だった。彼がフリーメーソンの少人数のグループによって誘拐されたことに疑いはなく、さらに、遺体は発見されないものの、殺されたと広くそして当然のことながら信じられていた。ここでこの事件について詳述する間もなく、モーガンの失踪に続いてフリーメーソンに対する同じような誘拐あるいは監禁の陰謀の告発が行われたが、いずれも事実無根であった。わずかの間に反フリーメーソン党はニューヨーク州の政界において存在感を高め、やがてそれは州を越え全土に広がった。しかし、ここで重要なのはそのイデオロギーであって、この党の歴史ではない。秘密結社としてのフリーメーソンは共和政体に対して常に陰謀的な存在と見做され、常に国家に対する反逆行為を為すものと考えられ、例えば、有名なアーロン・バーの陰謀もフリーメーソンによって実行されたと主張されたのだ。フリーメーソンは合衆国および州の執行権の枠内にありながら、それと相容れない独自の制度を設け会員を束縛していると非難され、フリーメーソンは会員の義務とそれに反した場合の罰則があり、刑の執行に当たっては死刑もありうるとまことしやかに論じられた。反フリーメーソン派の人々は、フリーメーソンが行うとされる義務を果たせない場合厳しい報いを受けるとの恐ろしい宣誓に恐怖を感じ、心を惹かれたのである。デモクラシーと隠し立てする行為は基本的に対立するものと見做されたため、ファイ・ベータ・カッパ(Phi Beta Kappa 1776年に創立された成績優秀な大学生の友愛会)のごとき比較的無害な組織まで攻撃されるに至ったのだ。」
アーロン・バーはトーマス・ジェファーソン大統領下の第三代副大統領まで務めた男だが、評判は芳しくなく、米国財務の父、アレグザンダー・ハミルトンと決闘して死なせたエピソードで後世に名を残した。
「フリーメーソンのメンバーは困難な時には互いに助け合うこと、そして仲間内では互いにどこまでも寛容であることを誓約させられており、それが公の法の執行を無効にすると見做された。フリーメーソンの巡査、保安官、陪審員、判事たちはフリーメーソンの犯罪者、逃亡者となれ合いの関係にあるともされた。新聞もフリーメーソンの編集者、経営者に「口輪をかまされ」ているため、フリーメーソンが犯した悪事が隠されることもあり、モーガン事件のようなショッキングなスキャンダルが広く巷に流布しない主な理由とされたのである。そして、米国におけるいわゆる特権の拠り所のほぼすべてが民主主義の攻撃にあっている最中にフリーメーソンは特権階級の団体と見做され、ビジネスの機会を閉ざし、政治の現場を独占し、反フリーメーソン運動がその担い手とする屈強な一般市民を締め出すものとされたのだ。
こうした見方には事実そうだと言える要素がないとは言えず、著名で責任ある立場の指導者たちの多くが部分的でもあってもそれらを認めていたのである。フリーメーソンに対する非難や恐れのすべてが根拠ないものとして片付けられてよいものではない。しかし、ここで強調されるべきことは、フリーメーソンに対する敵意が常に終末論的、絶対主義的枠組みで表明されるということである。反フリーメーソンは、秘密結社は良い考えではないと単に表明するにとどまらないのだ。反フリーメーソンの定評ある手引書、『フリーメーソンに光を当てる』(Light on Masonry)の著者、ディビッド・バーナードは、フリーメーソンは人類に押し付けられた最悪の団体で、「悪魔の原動力であり、闇の、生産力に欠け、利己的で、亡国的、冒涜的、凶悪、反共和制、そして反クリスチャン的」なものとしている。数多くの反フリーメーソンの説教師の一人は、フリーメーソンを「使徒ヨハネに予言された邪悪な勢力同盟のひとつとしての決定的な印を帯びており、武力で世界を結集させ神に立ち向かい、千年紀の直前に行われる偉大な日の戦いで敗れ去るもの」(原文はすべて大文字)とした。
反フリーメーソン運動には、異教・異端狩り、魔女狩り的なムーブメントへと必然的に繋がっていく要素が数多く見られる。オカルト的とも言えるだろう。
「反フリーメーソンでさらにもう一点、今日のわれわれにとって印象的かつ不可解なのは、フリーメーソンが行う特徴的な宣誓に対する強い拘りである。フリーメーソンの宣誓は冒涜的なものと見做された。神との取引を汚し、社会の秩序に反して、正しい市民の義務と相容れない秘密の忠誠心の規範を設けているからである。最初に開催された反フリーメーソンの集会では、フリーメーソンの宣誓は危険であり人々を拘束する誓約とは認められないことを粛々と示すための準備に開催者は相当な時間を費やした。反フリーメーソンの多くは、フリーメーソンの会員が義務を十分に果たせない時に発動される罰にとりわけ強い関心を抱き、独創的かつ血なまぐさい刑罰をさまざまに思いめぐらされた。あるフリーメーソンの幹部は、義務を果たせなかったら、己に「ペテン師として右の耳を叩き落とし、右の腕を切り落とす」刑罰を課すなどと言ったと伝えられている。私のお気に入りの宣誓は、ロイヤル・アーチの階級にあるフリーメーソンが求めたと言われる、「頭に一撃を加え、脳みそを太陽の灼熱の光に晒す」というものである。フリーメーソンの残忍さは、支部の儀式で行われるとされる人間の頭蓋骨からワインを飲むことで示されると考えられた。フリーメーソンは禁酒を旨とする団体で、いかなる容器からもワインを飲むことは罪とされるためである。」
米国の陰謀論史 ③反カトリック
フリーメーソンに続くのはカトリックの陰謀である。反イルミナティ、反フリーメーソンが、プロテスタント優勢の米国で反カトリックへとつながるのも必然である。
「フリーメーソンの企みに対する恐怖がおさまらないうちに、米国が標榜する価値に対するカトリックの陰謀の噂が発生した。ここに見るのは同じ心の有り様と生活を脅かす陰謀が存在するとの同じ信念の存在である。ただ、悪者のみが異なるのだ。もちろん、反カトリックの運動は米国内で勢いを増す排外主義(nativism)の流れに乗ったもので、当然この二つは同じものではないが、両者が一緒になることでパラノイド・スタイルが猛威を振るってもそれに惹き付けられなかった穏健派の人々の多くを取り込むことになり、米国社会に大きな爪痕を残したのである。さらに言えば、北部諸州の人々の人種的、宗教的に同質な社会を維持しようとする欲求を単に不寛容、偏狭なものとして片付けることはできず、また、個人主義と自由に対するプロテスタント固有の拘りが作用したことも否定できるものではない。しかし、この運動はかなりのパラノイド的思考に冒されており、特に影響の大きかった反カトリックの闘士はパラノイド・スタイルに惹かれやすい傾向があったのである。」
「反カトリックは反フリーメーソン同様にその盛衰は米国の政党政治と深く関わっている。その政治的経歴を辿ることは本題から離れてしまうかもしれない。しかし、米国政治において反カトリックは永続的な要素となったのである。1890年代の米国保護協会(The American Protective Association)は反カトリックの思想を1893年の経済恐慌の時代に合わせた形で復活させた。そのひとつを挙げると、経済不況はカトリック教徒の仕業であり、彼らはまず銀行の取り付け騒ぎを起こしてそれを始めたというのである。協会のあるメンバーは、米国のカトリック教徒に1893年のしかるべき日に異端者の根絶を命じるレオ13世の回勅を偽造して流布させ、数多くの反カトリック運動の信奉者たちはカトリックの全国一斉の蜂起を毎日のように待つことになった。異端者の根絶と損傷を意図するカトリック教徒の戦いの日が迫っているという神話は20世紀になってからも根強く残っていたのである。」
ホフスタッターの陰謀論とパラノイド・スタイル(5)に続く