朱牟田夏雄『英文をいかに読むか』 その1

 朱牟田夏雄の翻訳に接したのは岩波文庫から出た『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン著)が初めてだった。何がきっかけでこの本を手に取ったのかは覚えていないが、ストーリーどころか頭も尻尾もないような奇妙な話で、夏目漱石が、「何時垂直線が地平線に合するやら読者は只鼻の穴に縄を通されて、意地悪き牧童に引き摺らるゝ犢(こうし)の如く」 「単に主人公なきのみならず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠(なまこ)の如し」(『トリストラム、シャンデー』)と評したこの作品をよくも訳したなと感心したが、さらには、元は英語なのだろうか、ひょっとして、初めから日本語で書かれたものではないかとさえ思わせる巧みな文章に惹かれ、中巻まではすぐに出たが、下巻がなかなか出版されず、手に入れるまでしばらく待ったことは覚えている。この時手に入れた上中下3巻の文庫本は英文学に関心がある真面目な大学の後輩に酔っぱらった勢いで進呈してしまった。

 朱牟田夏雄はこの翻訳で第18回読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞した。アメリカ文化研究家で翻訳家の柴田元幸は、名訳と聞いて思い浮かべるものとして、野崎孝訳ジョン・バース『酔いどれ草の仲買人』(原著を持っているが、数ページ読んでから放置)、鴎外の『即興詩人』(岩波文庫ワイド版が本棚に)あるいは『諸国物語』、そして、朱牟田夏雄訳のこの本を挙げているが、いずれの本も、その内容は、鴎外のものでさえも、一般の読者の趣味からは程遠いものなので、読むどころか本屋で目にすることも多くはないに違いない。いずれにせよ、英語圏以外でかくも素晴らしい文章で『トリストラム・シャンディ』を読むことが出来るのは日本くらいだろう。私は、原著が容易に手に入る場合は(英語の場合)、なるべく原著で読むことを薦めるが、朱牟田訳『トリストラム・シャンディ』は別である。

 さて、朱牟田さんのもう一つの名著に、『英文をいかに読むか』(文建書房 現在は研究社から新装復刊版が出ている)がある。想定読者は大学受験生だ。つまり、受験のための参考書なのだが、小西甚一の『古文の読解』のように受験参考書として書かれたものが「名著」として幅広い層に読まれる場合もある。『英文をいかに読むか』は実は今持っているものが2冊目で、そのページをパラパラとめくって、前に読んだことがあると気づいた。もちろん、私が受験生だった時に初めて読んだに違いないが(昭和34年初版なので、辻褄は合う)、実のところ、参考書としてどれだけ役に立ったのか確かな記憶がない。もっとも、相当にいい加減な受験生で、勉強しているふりをして深夜ラジオを聴き、(弟によれば)漫画を描いていたらしいので、まともに読んでいなかった可能性大である。おそらく、「第一編 総論」に目を通した程度だろう。

 この本の狙いは、英語の試験にパスするためのコツを教えることではなく、受験のために英文を学ぶ機会を利用して、英語で書かれた文章を読むために必要な心構えを説くことなので、受験参考書のくせに説教臭いと反感を覚える人もいるようだが、ためになるなら多少の説教は我慢して聴くべきだ。朱牟田さんの説く英文読解の心構えは、まず、「どこの国の人間が書いた文章にもせよ、正常な頭の持主が書いたものである以上、そこには一応万人共通の論理というものは通っている。」つまり、論理的に考えろということで、次に、「柔らかな頭を持て」つまり、「何かの先入主的余談を以って英文に対することは慎め」、以上二点に尽きるが、これがなかなか難しい。さらに私なりに付け加えれば、「手当たり次第に読め」、「辞書に頼るのは最小限に、文脈で読め」、ということだろうか。

 しかし、英語、日本語に限らず、どう読んでも頭に入ってこないものがある。いわゆる悪文である。悪文とは、辞書によれば「へたでわかりにくい文章」つまり、「文脈が混乱して、まとまりのない文章」のことだ。私が今書いているのもこの範疇に入るのかもしれない。しかし、英語でさらに悪文であれば、読解不可能になるに違いない。文脈が混乱しているのは以ての外だが、いわゆるBig words(長く、難解な言葉で他の平易な言葉で代替可能なもの)が羅列する文章にも閉口する。 

 随筆家としても著名なジョージ・オーウェルは、『政治と英語』という文の中で、自らに課した文章作法上の規則として6つを挙げている。日本語の文章作法としても十分あてはまる。最後に付け加えた規則が面白い。こうした規則を守っても、良い文章を書くのは難しいのだ。 

Never use a metaphor, simile, or other figure of speech which you are used to seeing  in print.(見慣れた暗喩や直喩、その他の比喩を使うな。)

Never used a long word where a short one will do.(短い言葉で用が足りれば、長い言葉を使うな。つまり、longあるいはbig wordsは使うな。)

If it is possible to cut a word out, always cut it out.(削れる言葉は常に削れ。)

Never use the passive phrase where you can use the active.(能動態が使えるなら、受 動態を使うな。)

Never use a foreign phrase, a scientific word, or a jargon word if you can think of an everyday English equivalent.(相当する日常的な言葉があるのなら、外国語や学術用語、専門用語を使うな。)

Break any of these rules sooner than say anything outright barbarous.((この規則を遵守した結果)文章があからさまにひどいものになるのなら、これらの規則のどれでもすぐ破れ。) 

その2につづく