2023年 私の10冊 その5
⑤ マックス・ウェーバー 仕事としての学問 仕事としての政治(講談社学術文庫)
マックス・ウェーバーの著作でまともに読んだのは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」そして「職業としての学問」の二冊のみである。「プロテスタンティズム」はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」に触発されて読み、「職業としての学問」を手に取った理由はウェーバーの著書では最も薄かったからである。動機はさておき、この二冊はウェーバーを読むにあたって欠かせないものだが、二冊で十分と言っているわけではない。私の書棚には「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」とすごいタイトルの本もあるが、どういうわけか棚の最も高いところにあるので、容易に手が出せない。
「仕事としての学問」は2018年に講談社学術文庫から発刊された新訳で、岩波の「旧訳」が重いと感じた訳者の工夫がある。その一つが「職業」を「仕事」と訳したことで、ドイツ語Berufの訳としては、金を稼ぐニュアンスが強い「職業」より「仕事」の方が相応しい。
しかし、「私」を「僕」としたことには抵抗感がある。マックス・ウェーバー大先生が自分のことを「僕」と称するのは、レイモンド・チャンドラーの探偵フィリップ・マーロウが「僕」と言うぐらいの違和感がある。
些細なことはともかく、新訳で読み直してなかなか含蓄のある本だと思った。特に素人と学者の違いを述べたところなど実に新鮮だ。ウェーバーは次のような言葉を残している。「一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って現れる。…素人(つまり、ディレッタント)の思いつきは、普通、専門家のそれに比べて優るとも劣らぬことが多い。実際、われわれの学問領域でもっともよい問題やまたそれのもっとも優れた解釈は、素人の思いつきに負うところが多い。…素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれときまった作業方法を欠き、したがって与えられた思いつきによってその効果を判定し、評価し、かつこれを実現する能力をもたないということだけである。」ウェーバーは、方法論を持たない素人(ディレッタント)の問題を指摘するのみならず、熱意あるディレッタントが持つ力と冷静な専門家の協働の可能性も示唆しているのだ。
付け加えますと、「仕事としての政治」の方はまだ読んでおりません。