Convenience Store Woman(『コンビニ人間』村田沙耶香)

村田紗耶香の『コンビニ人間』英訳本である。英国の老舗文芸出版社、Grantaから出版された。なかなかいい訳で、登場人物は「英語を話す」が、日本人に見える。最近、英国と米国では日本の女性作家の本が次々に翻訳出版され、いずれも評判がいい。彼女たちの誰かがノーベル文学賞を受賞してもおかしくはない時代になってきた。
「飲料や食品を中心とする商品をセルフサービス方式で小売りする小規模な店舗。発祥は米国だが、日本で独特な発展を遂げている」のがコンビニである。日本独特なものかと思っていたが、発祥は米国なのである。コンビニは買い物を楽しむ場所ではなく、最寄り品を必要な時に手軽に購入する場所で、ちなみに、最寄り品は英語でconvenience goodsだから、コンビニとは文字通り最寄り品を売る店のことである。
利用者にとってコンビニはさっと入ってさっと出ていく手軽な店だが、この小説の主人公である36歳独身古倉恵子が、少数の例外を除いて(妹)、彼女が人とある意味積極的に関りを持つのはコンビニという場を通じてのみなのである。つまり、彼女にとってはコンビニが彼女の属する唯一のコミュニティなのである。コミュニティと言っても所謂ゲゼルシャフト、利益共同体である。彼女と他の従業員(店長を含む)との関係は従業員同士の関係を出ないし、客との関係も店員と客以上のものではない。コンビニのどこにも人間同士の親密な関係は存在しないのである。しかし、彼女にとってコンビニはこれ以上ない場所である。なぜか。
古倉恵子はアソーシャルなタイプである。人間関係を自ら作り出すことができない。彼女には社会的認知障害があるからだ。「社会認知」は他者の意図や感情、行動を読み取り、自分の振る舞いを調整する脳の働きで、ここに問題があると、皮肉や冗談が理解しにくい、他者の表情や空気が読みにくくなる。つまり、「おもんばかる」ことができない。一言で言うと、「人の目を気にしない」のである。「人の目を意識できない」と言うべきか。「人の目を意識できない」と自分の行動を修正し、抑制することができず、世間から見ればとんでもないことをしでかす。ただし、彼女はアンチソーシャルではない。社会に対して反感を抱いているわけではないのだ。そこで、実生活では、社会との無用な衝突を避けるための羅針盤あるいは代弁者として妹を使って生活しているのである。つまり、アソーシャルな古倉恵子はコンビニに親密な人との交わりを求めているわけではない。では何を求めているのか。コンビニの何が彼女を惹き付けるのか。
この本の冒頭では、コンビニの店内の様子、古倉恵子や他の従業員の立ち居振る舞い、客の行動などが詳しく描かれ、日本人でない読者は「おお、日本の情景だな」と思うだろう。(”Irasshaimase! Good morning, sir”)古倉恵子が働くコンビニは、客が自分で商品を選び、カウンターで店員がそれをチェックし、客が金を払い商品を受け取っておしまいの無機質な場所ではなく、店員同士、客と店員の交流もある活気ある場所として描かれているのである。人間関係が構築できない、おもんばかることができない古倉恵子はこのような場所で働けるのだろうか。
働けるのである。しかもかなり効率的に。完璧なマニュアルがあるからだ。マニュアル=ルールといっても良い。コンビニではその「社会」を規定するルールが事細かに明文化されているのである。仕事の内容、手順はもとより、客との接し方、言葉遣いまで実にこまごまとマニュアル化されているので、古倉恵子はなんら「おもんばかる」必要がないのである。
マニュアル=ルール=秩序である。その昔、「秩序」はドイツ語でOrdnungと習った。「秩序」とは、物事が整然とした状態、または社会や個人の生活における規律や組織を指し、特に社会的には、法律や規則の遵守、制度的な整備など、社会が円滑に機能するために不可欠な要素である。実際のところ、実社会ではすべてのルールが明文化されているわけでもなく、しかも社会の成員にそれらが共有化されるのも難しいので(暗黙知)、生活する中で、人との交流の中で「学んで身に着ける」ことの方が多いだろう。しかし、古倉恵子はそれができないのである。
しかし、コンビニではその「秩序」がすべて文章化されているのである。少なくともコンビニで働く限りではその「秩序」を受け入れれば、何の問題もない。古倉恵子は仕事のために規則正しく生活せよとの余計なお世話まで厳守する。押し付けられた感は全くない。コンビニというコミュニティで平穏に生活するために自然にルールを受け入れるのである。コミュニティと個人との理想的な関係がある。人間関係も従業員同士、店員と客の関係のみであり、実にシンプルである。しかも、その関係を規定するルールがある。さらに、コンビニのルールは目的がはっきりしている。ルールを実行すれば、客は満足し、売り上げは上がり、他の従業員たちもハッピーである。行ったことが結果として現れ、実感できるのである。
しかし、コンビニにいるのは勤務している間のみである。残業もあるが、勤務時間以外では別な世界で暮らさなければならない。羅針盤の妹がいるが、妹にも彼女の人生がある。子供が生まれたのでなおさらである。そこで、古倉恵子はコンビニを離れてフツーの社会での暮らしを試みることになる。その契機となるのが白羽という男である。白羽は、「社会を意識できない」古倉恵子に対して、「社会を意識しすぎる」男である。世間体がすべてなのである。しかし、白羽の実体と世間体の間には大きなギャップがある。実体がこうあるべきという姿に付いていけないのである。普通はあるべき姿になろうと努めるのだが、白羽の場合、何もしないのでギャップが広がり不満ばかり募る。何もしない文句ばかりの男なのである。イメージと実体のはざまでもがく、「居場所のない」男と言ってもいい。居場所を見つけてきびきびと働く古倉恵子の姿とくらべこの男の描かれ方は非常に醜く容赦がない。人の目を気にしすぎる社会を作者はこの男の姿を通じて描いたのかもしれない。この男は極端だが、古倉恵子を取り巻く連中は妹を含め大なり小なり世間体の虜になっている。彼らに比べると、古倉恵子ははるかに自由である。
最初は、「人の目を意識できない」古倉恵子が問題だと映ったが、問題なのは彼女の周りの人間かもしれない。病んでいるのは彼らなのだ。この小説から一つ「教訓」を取り出そうと思ったが、やめておこう。読みたいように読む、それがこの小説の読み方ではないか。
本稿は、シニア社会学会例会のために提出したものである。(2026年9月)

