平城宮跡巡り(その二)


 以前、昨年の三月に寒風と冷雨の中平城宮跡を巡った話を書いたが、今年、五月末日に平城宮跡を再び訪れ、また今回も奈良文化財研究所主任研究員馬場基氏のガイドで昨年とは異なる平城京の西方面ルートを回った。前回とはうってかわって雲一つない晴天だったが、陽が強すぎて無帽の頭にこたえた。文句の種は尽きないものだ。


 今回散策したのは平城宮の西方面で、普段人があまり行かない場所が中心だ。集合場所は平城宮祉資料館内であり、開始時間まで時間があったので、資料館内を回ったが、相変わらず興味深い。派手な展示物はないが、平城宮祉とその周辺の発掘、研究成果を直に確認できる。近年は外国からの客の姿も見かけるようになったが、平城宮祉を訪れる観光客は
歴史、文化に対する関心が高いようで、物静かにじっくり見ていく人が多い。


 さて、平城宮祉巡りのスタート地点はこの平城宮祉資料館の中庭からで、北西隅の植え込みの中に何の変哲もない大きな立方体の石があった。馬場さんによると、これは平城京の正門である羅城門の礎石だそうである。1935年の佐保川改修工事の際に発見されたものだが、発見された場所とその大きさから羅城門の礎石であると特定された。その羅城門
は現在の奈良市内観音寺町の来世橋付近(門の本体は佐保川の河川敷下)にあったと考えられ、他に三個発掘されている。それらの礎石は羽柴秀長のころの郡山城の石垣に利用されたと伝えられている。この他でも寺院の礎石、五輪塔、石地蔵(魂は抜いたと思うが)などの転用石が城の石垣に使われたというから、石垣に使える石などそこら中にあるわけでなし、使えるものなら何でも使えと、秀長に羅城門の礎石を使ったという意識はなかったろう。ともかく、その一つがこうしてさりげなく展示されているわけだ。奈良では石にも歴史がある。


 この平城京祉資料館内のスペースに馬小屋や馬の水浴び場の痕跡が見つかり、発掘と研究の結果、左馬寮、右馬寮の跡であるとわかった。馬寮は平城宮西辺にあって,長い細殿的な建物からなり,その細殿にかこまれて広い空間がある。馬寮は「めりょう」と読み、平城宮で使役される馬の飼育、管理を行っていた役所である。平城宮はそのレイアウトが記録として残っていないので、役所の場所と名称の推定にあたっては図が残されている平安京のレイアウトが参考になるそうだ。平城宮内で見つかった官衙区域のうち名称が推定できたものは,馬寮,大膳職(だいぜんしき),陰陽寮(おんみようりよう),式部省,兵部省,民部省,造酒司(さけのつかさ)等で,その遺跡が直接確認されたものは馬寮,大膳職,陰陽寮,造酒司の4つしかない。馬場氏によると、馬寮付近では出ていないが、平城宮で市場があった場所の周辺などからはかなりの馬の骨が出て、それも、頭をかち割られ、五体ばらばらの骨が多い。馬は現在の群馬県などから京に送られてきたが、宮殿で使用するエリート馬の基準に合わない個体(特に体形が小さいもの)はすぐ屠殺され、その皮は革製品となったそうだ。頭をかち割られているのは皮を鞣すために脳みそを取り出したからである。「脳漿鞣し」は最古の鞣し技法の一つで、脳漿、つまり脳みそをオイルとして使用して、その成分を皮に浸透させて揉み込んで柔らかくする技法。奈良時代には高度なテクニックが確立されていたようだ。奈良時代の馬革製品は正倉院に結構残されており、鞍、轡、鞍帯などの馬具、上級官人の革帯・靴などに利用され、漆塗りや彩色などが施されている。なお、木簡からは牛や馬が食用に供されたかどうかは定かでないそうだ。もっとも、木簡の記録は宮廷や貴族、役人に関する事柄が主なので、記録がないからと言って庶民が馬を食べなかったとは言えない。骨に残る痕から見ておそらく食べられたに違いないと。


 平城宮の西面中門である佐伯門の正面にあたり、城宮祉資料館から道路一つ隔てたところにあるのが奈良文化財研究所(通称「なぶんけん」)である。ここにも奈良時代の遺構がある。佐伯門の外を一直線に通るのが西一坊大路で、奈良時代から南北を縦断する現存の道路の一つ。現在では奈良市と大和郡山市をつなぐ道路になっている。奈良の西一坊大路の幅は場所によって異なり、40メートルから弱から20メートル弱の範囲で、メインストリートである朱雀大路の幅は最大で74メートルに達するから、それには及ばないが、現代の基準ではそうとう幅のある道だった。面白いのはこの道を横切る佐保川の支流である秋篠川の旧流路が発掘され、その跡が「なぶんけん」の敷地内にきちんと残されていることだ。その秋篠川の流路の底には二葉マツやアカガシの枝や葉を、南北20メートル、東西14メートルにわたって敷き詰める「敷葉工法」という工法が用いられていたとのこと。軟弱な地盤や盛土を安定させる効果があるそうだ。西一坊大路と一条南大路がクロスする辺りからは流路以外に牛の蹄跡(冷凍の牛の蹄を使って牛のものだと確認)が相当見つかった。牛は農耕用ではなく、荷物を引かせるために使役されていた。古代の流通の要であり、木材の集積地である木津から木津川を経由して平城京に物資を運ぶために旧秋篠川は堀(堀川)として使われ、それは西の市場まで続いていた。東の市に繋がる堀はあったが、現在は地中に埋もれてしまっている。今は何もないが、流路の跡に立つと、人や牛でごったがえす往時の平城の市の姿が目に浮かぶ。


「なぶんけん」の敷地から離れて、右横に住宅地を見ながら、近鉄奈良線の線路を超えて西一坊大路を南に進むと玉手門を経て平城宮南面西門である若犬養門(わかいぬかいもん)に辿り着く。この辺り、草と樹木が茂るのみで何もない。若犬養門も基壇は削平され、礎石も残っていなかったが、発掘の結果、門址と特定された。佐伯門、犬養門、伊福部門、壬生門など平城宮の門には門を監理した古代豪族の名前が付けられた。古代豪族が没落し、天皇中心の体制となった平安京ではそれが改められ、漢字でもっともらしい名前が付けられたが、壬生門→美福門など、元の名称が窺えるものが多い。この辺りは草で覆われ、樹木もあまりないが、実は、当時としては異例の87歳という長寿で、聖武から桓武の六朝に仕え、平城京から平安京に遷都された後もこの地に住み続けた中臣清麻呂の屋敷があったところなのだ。記録に延暦七年平城右京二条にて薨去とある。延暦七年(西暦788年)は最澄が比叡山に一乗止観院(後の根本中堂)を建てた年に当たる。このころまで奈良で頑張っていたわけだ。清麻呂さんのことは初めて聞いたが、「国家の昔のことをよく知っている老臣であり、朝廷の儀式について多くを諳んじかつ熟練していた。高位の官職にあって政務を見るにあたって、年老いても精勤で怠ることがなかった」人物だそうだ。奈良時代の平均寿命(階層によって差が大きいが)は30歳くらいだったというから、清麻呂さんは異常な長寿だ。これだけ長く生きればそれだけで尊敬に値するだろう。平均寿命30歳と言っても、奈良時代は食糧事情も安定し、寿命が延びた時代で、平均身長も男性163センチ、女性152センチと江戸時代(男性157センチ、女性146センチ)より大きいのである。この時代は米が主食(麺もあった)、油も少な目、海藻など野菜中心、結構ヘルシーな食生活だった。


 若犬養門を出れば、宮殿の外に出たことになる。この辺りからは興味深い木簡が見つかり、木簡というより立札と言ったほうがいい大きさで(長さ70センチ、幅32センチ)、「常陸国那賀郡人公子部牛主之□□〔以ヵ〕今月廿七日夜自大学寮辺被盗/鹿毛□□□□歳八/□□後脚□□□□∥○宜告知諸生徒及官□□〔諸ヵ〕□・人等若有見露者諸□〔聆ヵ〕□□□□□《》□□〔天平ヵ〕□□□□□□□□〔八年六月廿八ヵ〕日」と書いてある。天平宝字八年とは西暦764年で、書かれている内容は、「常陸国那賀郡の公子部牛主は、6月27日の夜、大学寮の近辺で鹿毛の馬を盗まれたので、見かけた人がいれば知らせて欲しいと28日に書き記した。」ということである。わざわざ、今の茨城県あたりから馬を連れてやってきたが、その馬が盗まれたと言うのである。その馬が戻ってきたかは記録がないが、「大学寮の近辺」で盗まれたのがポイント。つまり、この木簡が発見された地域に大学の建物があったのではないかと考えられたわけだ。しかし、このエリアからはそらしい遺構もそれ以外に大学の存在を示す木簡も出土していない。平城京には貴族の子どもたちを役人に養成するための機関、すなわち大学があり、13~16歳で入学して、9年以内に卒業すると定められており、卒業して国家試験に合格すれば、晴れて役人になることができた。学生は、貴族のほかに、文章を書くことを専門とする家系の子の入学が優先されたが、希望すれば下級役人の子も入学できたそうである。この大学で学んだ有名人はなんと言っても空海だろう。空海(出家前の名は真魚(まお)が大学で学んだ頃は平安京遷都の後だが、大学は平城京にあったのである。彼は明経科に在籍していたので、主として経書を学んでいたが、その内容に疑問を持ち、二年で自主退学した。最近の発掘と研究で明らかになりつつあるのは、大学は朱雀門の外側にあったらしい。今回のツアーはその近辺で終了した。大学の遺構まだ確定には至らず、今後の発掘と研究を待たねばならない。


 今回のツアーは昨年三月のものとは違い、遺構の影も形もない、草むらのような場所を巡った。しかし、その地下には様々な遺構、遺物が眠っているのである。これこそ平城宮祉ツアーと言えるものではないか。

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