The United States of Lyncherdom  By Mark Twain

リンチの国アメリカ ①

Mark Twain

 マーク・トウェインのリンチに関するエセーである。『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んで、トウェインの奴隷制に関する態度は如何と調べていたら、このエセーに出くわした。これを書いた当時(1901年)、トウェインは時期尚早と、発表を控えたそうだ。内容はもちろんリンチを非難するものだが、独特の皮肉も効いているトウェインらしい文章と言えるだろう。この文章はパブリックドメインにあるので、全訳しても大丈夫だろうな。

 偉大なる州、ミズーリも地に堕ちた。ミズーリの息子のある者たちがリンチに加わったのだ。我々はその汚辱にまみれた。ほんの一握りの者のために我々の評判が左右される。今回のみでなく未来永劫この世界の隅々の人々に「リンチ者(lynchers)」というラベルで知れ渡るのだ。世界がまてよと考え直すことはない。そういうものではないのだ。一つの例からすべてを推し量る、これが普通なのだ。「ミズーリの人々は営々と80年もかけて善き名を築き上げてきた。この州のどこかでリンチに加わった100人あまりの者たちは真のミズーリ人ではない。奴らは反逆者たちだ」とは言わない。真実が考慮されることはないのである。ほんの一つか二つの誤った例から結論を引き出し、そして言う。「ミズーリ人はリンチ者である」じっくり考えることなどしない。ロジックもない。公平な見方などもない。数字など何の意味もない。数字で何かが明らかになることもない。数字をもとに理性的にものを考えることなどない。例えばだ。中国では毎日9人の中国人がキリスト教に改宗しているので、中国は急速にそして確実にキリスト教化されていると言う者は、中国では毎日3万3千人の非クリスチャンが生まれていることがその論を台無しにしていることに気が付いていない。世界は言うのである。「ミズーリには100人のリンチ者がいる。つまり、ミズーリ人はリンチ者なのだ。」リンチに参加しないミズーリ人が250万人いるという事実はこの評決に何の影響も及ぼさないのである。

 嗚呼、ミズーリよ!

 悲劇は州の南西の端、ピアースシティで起きた。日曜の午後のことだ。一人で教会を出た若い白人女性が殺されて見つかった。私がいた時分、この地域で宗教は日常的で、南部では北部より教会の数が多く、いたるところにあり、その活動は精力的で熱気に満ちていた。それは今でも変わらないと思う理由は十分にある。そこで若い女性が殺されて発見された。教会と学校が多い土地だったのだが、人々は立ち上がり、3人の黒人をリンチにした。そのうち2人はかなりの年寄だった。さらには黒人の家5軒を焼き討ちし、30もの黒人世帯を森に追いやったのである。

 何が人々をこの犯罪に駆り立てたのか、それについて深く立ち入ることはしない。事の本質と関係がないからだ。凶漢たちが法を無視して私的な制裁を加えた、この点が問題なのである。きわめてシンプルかつ明快である。悪を正すという法のみが持つ力を凶漢たちが奪い取ったかが証明されれば、事はそれで終わりである。彼らを犯罪に駆り立てたものがいくつあろうとも弁護の余地はない。ピアースシティの民衆は何かひどいものに駆り立てられたに違いない。それは事の仔細を見れば明らかなことだ。しかしだ、法を無視して私的な制裁を加えたのである。定められた法規によって法が正しく施行されたら、私刑の犠牲者たちは間違いなく絞首刑に処せられただろう。この地域に住む黒人は極めて少数で、陪審員に対して何ら権限も影響力も持たないからである。

 この国いくつかの地域で、私刑とそれに伴う野蛮な行為がごく普通の犯罪に対するお気に入りの取り締まりの手段となった理由は何か。監獄の中で執行される地味な絞首刑よりも派手で残酷な刑罰の方が教訓として犯罪抑止に有効だと考えるからであろうか。まともな人間ならそんなことは思わない。そんなことは子供だってわかっている。奇妙かつ話題になる出来事には模倣がつきものだと知るべきである。ほんのちょっとの刺激が与えられるだけでわずかに残った理性も失い普段ではとても考えられないような行為に及ぶ血の気が多い輩に事欠かないのがこの世界なのである。ブルックリン橋から身投げをする人間がいれば、それを真似て飛び込む者が出る。樽に入ってナイアガラの滝を下ろうと試みる者がいれば、続くものが出る。切り裂きジャックが暗い路地で女を殺し悪名を高めれば模倣犯が出てくる。ある男が国王殺しを企て、世界中の新聞が騒ぎ立てれば、そこら中に国王殺しが現れるのだ。

 黒人が人を殺し、それが大騒ぎになれば、不安をいだく黒人をさらに怯えさせ、次の殺人へと繋がるかもしれない。コミュニティはこうした犯罪の抑止に心血を注いでいるにも関わらず、こうした犯罪が次の犯罪を生み、惨事は減るどころか年々増えていくのである。言い換えれば、リンチ者は彼ら自身が女性の最大の敵なのである。

個人のみでなくコミュニティも本質的に模倣を行うのである。子供でも知っていることだ。リンチが騒ぎになれば間違いなく次のリンチがそこかしこで行われる。やがて、リンチマニアが登場し、流行になって、年を追うごとに、そして複数の州にまたがり、ますます広まっていく。リンチがコロラドにやってきた、カリフォルニアにも、そしてインディアナに、そして、とうとうミズーリにも到達したのである!いつか私はニューヨークのユニオン広場で黒人が火あぶりの刑に処せられるのを見るかもしれない。見物人は5万人、その中に、シェリフ、州知事、巡査、軍隊の長、聖職者など法と秩序を守る者の姿は影も形もない。

 リンチが増えている。1900年は1899年よりリンチの数が8件増えた。おそらく今年は昨年より増えるだろう。今年はまだ半分過ぎたばかりだと言うのに、昨年の合計115件に対して88件ものリンチが行われたのである。中でも南部4州、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、それにミシシッピは最悪である。昨年のリンチの数は、アラバマで8件、ジョージアで16件、ルイジアナで20件、そしてミシシッピで20件であった。この4州で全体の過半数を占めた。今年はというと、すでにアラバマで9件、ジョージアで12件、ルイジアナで11件、ミシシッピでは13件で、合衆国全体の半数以上を占めているのである。(シカゴトリビューン紙)

 リンチの増加は、人間生来の模倣本能とともに、人目にさらされることを厭う、指を差されたくない、負け組に付きたくない、こうした人間共通の弱点に負っているに違いない。言い換えれば、道徳的怯懦である。人が1万人いれば、9999人の性質においてこれが優位を占めるのである。これは何も新しいことではない。内心ではどんな馬鹿者でもこれが真実だと思っている。歴史を見れば、我々の性格のこのもっとも際立つ特徴を忘れることも無視することもできない。この世界が始まった時から、邪悪な行為や民衆の抑圧に戦いを挑むのは1万人のうちのたった一人の勇敢な人間であり、残りの9999人は待ちの姿勢をとるか、一人の勇敢な人間と他の1万人グループの中から現れるその追従者たちに影響されておそるおそる運動に加わるのである。歴史は常にそして冷笑的にこのことを語っている。人種差別撤廃論者は知っている。人々は最初から思っていても、自分の内心の思いを隣人と共有していると知るまでは公にすることを恐れるのである。ブームはいつか起きる。いつもそうだ。ニューヨークで起きたら、やがてはペンシルバニアでも起きるかもしれない。

 リンチに集まる人々はその光景を楽しみ、その機会を待ち望むといいう意見がある。しかし、これは真実ではない。過去の経験が真実でないと語るのだ。南部の人々も北部の人と変わるところはない。多くは正しい心と思いやりの心を持つ。リンチの光景には心をひどく痛めるのだ。にもかかわらず、世間がそれを要求すれば、リンチに集い、喜ばしいとさえ漏らす。我々はこのように出来ているのである。これはどうしようもないことだ。他の動物は違う。しかし、人間はそうなのだ。他の動物には道徳観はない。人間は道徳観を他のもの、あるいはそれ以上のものに変えることはできない。道徳観は人間に何が正しいかを教えてくれ、正しくても都合が悪ければ、それをせずに済ませることも教えてくれる。

 繰り返すが、リンチに集う人々はリンチを楽しんでいると言われる。しかし、それは違う。それを信じることはできない。最近の新聞を見ればリンチについて様々な意見が飛び交う。何が人をリンチに駆り立てるか、その衝動は誤解されている、それは復讐の精神がもたらすものだ、さらには人が苦しむのを見たい欲求のなせるものだというものもある。もうしそうであれば、ウインザーホテル(1899年ニューヨークで高級ホテルが火事に合い、90名前後の死者を出した)が燃え落ちる現場にいた人々は目の前で起きる光景を楽しんだに違いない。本当にそうか。誰もそんなことは考えないし、そうだと非難することもない。多くの男性そして女性が生命の危機に直面した人々を救うために危険を冒した。では、なぜそのような行為に及んだのか。非難の余地がない行為だったからである。止めるものがないので、自然に思うまま行動できたのである。

 では、なぜテキサス、コロラド、インディアナに集まったこの同じ人間たちが、傍観者として打ちひしがれ、惨めな気持ちでいるのに、外面はリンチを楽しんでいるように見せかけなければならなかったのか。なぜ誰一人として反対の声を挙げ、そのそぶりを示さなかったのか。悪評を恐れるからである。これに尽きる。人は隣人の非難を恐れる。人は怪我することや死ぬことよりも隣人に非難されることを厭うのだ。リンチがあると聞けば、馬車あるいは牛車を仕立て、妻子を連れて数マイルもの道を見物に訪れるのである。リンチを見たいから行くのか。いや、家に留まることを恐れるのだ。家にとどまっていることを目撃され、悪い噂が広まることが怖いのだ。これは信じても良い。リンチのような光景を見てどのように感じるか実際に知っているからだ。人がプレッシャーを受けたときどのように行動するかも知っている。我々は他人より善でも勇敢でもないのだ。そして、この事実から目を背けるべきではない。

 サヴォナローラ(ジローラモ・サヴォナローラ、宗教改革の先駆)ならリンチに集まった群衆を一瞥するだけで鎮め、追い払うことができるだろう。メリルやベロートのような人物(Joseph Merill、Thomas Beloat、共にシェリフでリンチを防いだ)もできる。勇敢な人間の前にして群衆はその活気を失うのである。それに、リンチの群衆は追い払われやすいのである。ほんの一握りを除けばリンチのその場にいたくないと思い、その勇気があれば他の場所に行くに違いないのだ。私が子供のころだが、ある紳士が群衆に嘲笑を浴びせ、辱め、追っ払ったのを目の当たりにしたことがある。その後、ネバダで一人の命知らずの男が、彼が避難の許しを出すまで家が燃えている最中にその場にいた200人もの人々をじっとさせていたのを目撃したこともある。勇気があれば客車一両分の乗客から金を奪い取ることができる。半ダースの男たちが駅馬車を襲い、乗客を身ぐるみ剝ぐこともできるのである。

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