『ジェイムズ』と『ハックルベリー・フィン』
“White people try to tell us that everything will be just fine when we go to heaven. My question is, Will they be there? If so, I might make other arrangement.”
「白い人たちは、天国に行けばすべて良くなる白人と私たちに教えようとするけれど、知りたいのは、そこにもあの人たちがいるのかと言うこと。もしいるならば、別の手立てを考えなくちゃね。」

作品の登場人物の言葉がこの小説のテーマを端的に表しているので引用した。天国はいいところらしいけれど、そこにも白人がいるのなら、行きたくないと。2024年に全米図書賞とピュリツァー賞を始め数々の賞を得た話題作、『ジェイムズ』(Percival Everett著)である。
この作品はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のストーリーをパラフレーズして進行するユニークな筋立てだ。主人公は『ハックルベリー』に登場する黒人奴隷、ジム、この小説ではジェイムズとなる。『ハックルベリー・フィン』の物語に登場するジムは無知蒙昧な存在として描かれるが、『ジェイムズ』では違う。英語の読み書きができ、黒人言葉でなく「正しい」英語を話すことができるジェイムズが真の姿で、黒人奴隷ジムはジェイムズが白人の前でのみ意図的に異なる人格として演じる姿なのだ。それが端的に示されるのは小説の冒頭、ハックルベリーとトム・ソーヤーの二人がジムの主であるミス・ワトソンの台所に忍び込もうとしている場面で、台所の外にいたジムが暗闇の中で彼らの音を聞きつけ、
” Who dat dare in da dark lak dat? ”
とまさに黒人奴隷の言葉で彼らに聞こえるようにつぶやく。しかし、内心では、
” The moon was not quite full, but bright, and it was behind them, so I could see them as plain as day, though it was deep night.”、
隠れているつもりだろうが、月明かりを背にしているお前らの姿は丸見えだぞと。ジェイムズは逃亡仲間ハックルベリー・フィンの前でもジムを演じる。まともな一人の人間だと正体がばれるのが恐ろしいからだ。奴隷が奴隷らしくいる限り、白人たちは奴隷の主人として時には情けも見せるが、同じ人間だと示すような振舞が少しでもあれば、ひどく凶暴になるのである。いつか奴隷が反抗するだろうとの恐怖がそうさせるのだ。白人に口答えし、それもまともな英語など喋ったりしたら一巻の終わりで、凄惨なリンチを受けるに違いない。実際、ジェイムズの頼みでちびた鉛筆一本を盗んだ奴隷の一人はそれが露見してむち打ちされてからリンチを受け、木の枝に吊るされた。ジェイムズは白人への恐怖で「正体」を隠しながら、逃避行を続け、様々な苦難を切り抜ける。最後には、
” And who are you?”
との白人シェリフの問いに、
“ I am James.”
「私はジェイムズ」と宣言して終わる。この小説はまさにpage-turnerで、これでもかと危機が主人公を襲い、一気に読ませる。生まれついての奴隷であるジェイムズがいつどのようにまともな英語を学んだのか疑問は残るが、ジムとのジェイムズの演じ分けも巧妙に描かれる。
この作品がきっかけで、『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み直してみた。読み直したと言うが、実際はかなり昔、小中学生のころ抄訳に触れたのみで、まともに読んでいない。Penguin版のイントロによると、マーク・トウェインの本作は1885年に出版(イギリスでは1884年)されてから「偉大なるアメリカ小説」から「ごみ屑同然」まで毀誉褒貶はなはだしく、地域によっては出版直後から「発禁」処分を受けた。その主な理由は言葉である。例えば、黒人奴隷を示すniggerという言葉が200回以上使われている(215回らしい)。niggerは日本語では「黒ん坊」あるいは「黒奴」と訳され、意味的には後者が近いが、日本語では到底表現できない歴史的背景を持った差別用語である。
ではどう訳すのかと問われば、差別用語であることをはっきりさせた上で、「ニガー」と表記するしかない。昔の子供向けの訳本では「黒ん坊」となっていたと思うが、柴田元幸の最新訳では「ニガー」となっていた。
マーク・トウェインはniggerが差別用語であることを十分承知の上で使ったに違いない。南北戦争直前の19世紀半ばの南部アメリカをヴァーナキュラーで描くには、niggerという言葉を避けて通るわけにはいかない。大人はともかく、ナイーブな不良少年、ハックルベリーが黒人をniggerと言う時は犬をdog、猫をcatと言う時と変わりがないのだ。そう呼ぶものだと思っている。『ハックルベリー・フィンの冒険』の魅力の一つは、奴隷に関する白人社会の考え方(ハックルベリーはそれを自然に受け入れている)と実際にジムに対して抱く感情とのギャップに悩む姿にある。第16章でそれが描かれる。まず、自分に読み書きやマナーを教えてくれようとした親切なミス・ワトソンの奴隷の逃亡を助けてよいのか悩む。
” Conscience says to me, “What had poor Miss Watson done to you, that you could see her nigger go off right under your eyes and never say one single word? What did that poor old woman do to you, that you could treat her so mean? Why, she tried to learn you your book, she tried to learn you your manners, she tried to be good to you every way she knowed how. “
奴隷をこきつかう人間の下から奴隷が逃亡するのを手助けして何が悪いのだと思うが、奴隷の所有が合法的であった地域と時代を考えねばならない。ハックルベリーは奴隷制が悪だとは思っていない。奴隷解放主義者、Abolitionist(Ab’litionist)は悪い奴なのである。次に、逃亡奴隷を探す4人組の男たちに出会い、
” If you see any run-away niggers, you get help and nab(捕まえる) them, and you can make some money by it. “
と言われ、ハックルベリーは、
” I won’t let no run-away niggers get by me if I can help it.”
と答え、彼らが去った後で、ジムをかばっている自分に対して、子供のころからまともに育っていない奴には正しいこともできないのかとひどく落ち込むが、
“ Then I thought a minute, and says to myself, hold on, s’pose you’d done and give Jim up; would you felt better that what you do now? No, says I, I’d feel bad, I’d feel just the same way I do now. Well, then, says I, what’s the use you learning to do right, when it’s troublesome to do the right and ain’t no trouble to do wrong, and the wages is just the same?…… So I reckoned I wouldn’t bother no more about it but after this always do whichever come handiest at the time.”
では、ジムを差し出したらいい気分になっただろうか。そんなことはないと自問自答するのだ。正しいこと(ジムを差し出すこと)をしても間違ったこと(ジムをかばうこと)をしても同じなら、これからはその時その時にいいと思ったことしようと決める。正しい正しくないではなく己が思ったまま行動すればいいのだ。
『ハックルベリー・フィン』をストウ夫人の『アンクルトムの部屋』と比べて、奴隷制に対する態度が徹底していない(奴隷制を公然と非難していない、ジムの扱いが不十分)とする評があるが、『アンクルトム』は反奴隷制を訴える目的で書かれた政治小説と言えるものだ。『ハックルベリー』にそうしたプロパガンダ臭は全くない。『ハックルベリー・フィン』は少年ハックルベリーと黒人奴隷ジムの逃避行と友情の物語なのだ。マーク・トウェインはこの小説の冒頭に次のような注意書きを付けている。
“Persons attempting to find a motive in this narrative will be prosecuted; persons attempting to find a moral in it will be banished; persons attempting to find a plot in it will be shot.
By Order of the Author”
もちろん冗談だが、この物語に目的、教訓、作者の意図などを求める人間は厳罰に処すと、わざわざ前もって読者に注意しているのだ。
マーク・トウェインにはThe United Sates of Lyncherdom (リンチの国アメリカ) というリンチを非難するエセーがある。書いた当時は出版時尚早ということで、20世紀になってから日の目を見た。短いものだが、いつか紹介したい。
ミシシッピ川の流域で生まれ育ったT.S. エリオットは、『ハックルベリー・フィン』は親に読むことを禁じられていた本だった。ということは子供向きの本であると勘違いし、60歳になるまで読まなかったが、読んで、傑作であると評価した。この小説の最大の強みは、「無感動で、滑稽味がなく、無批判の(つまり子供然とした)」ハックを語り手としたところだとしている。ハックが無感動であるかはともかく、社会に対して「無批判な子供」であることは間違いない。だから、「あって当然の奴隷制」とジムに対する自然な感情のはざまで悩むのである。そしてそれは「人間の自然な感情に反する」奴隷制に対する批判でもある。
『ジェイムズ』で、何より心に残るのはアメリカにおける奴隷制の恐ろしさである。冒頭に引用した言葉が示す通り、たとえ天国に行けることになっても、そこに白人がいるのなら御免こうむりたいと言うのはまさに奴隷たちの本音である。奴隷的存在は先史時代から認められるらしいが、人類の歴史上アメリカにおける奴隷制ほど過酷なものはなかった。『ジェイムズ』でも普段は人当たりの良い好々爺、親切なオバサンまで黒人奴隷が相手ならそれこそ人が変わったようにどこまでも残酷に振舞うのが恐ろしい。アメリカの奴隷制は17世紀からの出来事であり、それにまつわる残酷な事実はかなり克明に記録されている。何かというと鞭打ち(板、なんと鋸で叩く場合もあった)、ひどい時には指、さらには手足を切り落とし、焼き印を押すこともある。そして衆人環視の中のリンチである。逃亡奴隷はまず殺されるが、主人に歯向かった者も死刑を免れない。木の枝に吊るされるのはまだいい方で、鋭い釘を埋め込んだ樽に押し込んで丘の上から転がすというようなことまでやった。中世の話ではない。19世紀に起きたことなのだ。
アメリカの奴隷制度についてはよく調べた上で、次の機会に取り上げたい。

