平城宮跡巡り

 平城京跡をツアーで巡ったのは東大寺の修二会に行った週の土曜日で、奈良から横浜に戻るその日だった。13時に始まり16時半に終わる予定なので、終了後すぐ大和西大寺駅で近鉄京都線特急に飛び乗り、京都駅18時10分発の新幹線に乗るつもりだった。スーツケースはすでに宅急便で送り、手荷物のみの軽装である。その日は朝からどんよりとしていて、午後から小雨の予報だった。折り畳み傘もあるし小雨くらいならなんとかなると多寡をくくり、昼間だし修二会の夜の寒さに比べればと思ったが、甘かった。予報通り12時半頃から霧雨状態で、しかも風がある。平城宮跡は大極殿を始め点々と建物があるが、全体はほぼ野原だと言ってよい。つまり吹き曝しになるのである。平城宮跡には今まで数度行ったが、予備知識もなく復元された建物を中心に巡り歩くばかりだった。より大規模に建物を復元しないのはなぜなのか、平城宮跡の中を横切って朱雀門の前を近鉄線が通るのはどうかなと思った程度で、強い印象は残らなかった。今回の平城宮跡を巡るツアーで最初の疑問は解消された。近鉄線の問題も解決されるようだが、それは40年後である。

■馬場基先生

馬場先生のツアー・ガイドブック

 ツアーは「馬場先生と平城京を歩こう」で、平城京とその時代の第一級の研究者によるガイデッドツアーである。馬場基氏は奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員、京都大学大学院人間・環境学研究科の客員准教授で、出土木簡研究の第一人者であり、私も著書を通じて知っていた。ブラタモリにも出ていたな。開始予定時間の20分ほど前に平城京跡内の集合場所に行ってみると、すでにもう参加者が集まっている。思っていたより多く、全部で40人ほどだろうか。しばらくすると、ツアー会社から招集がかかり、馬場先生が紹介され、短い挨拶があってから、小雨が降る中ツアーはスタートした。歩くコースは決まっていて、兵部省・式部省・壬生門⇒平城京東辺地区⇒SD2700と官衙⇒東区の中枢施設と内裏の順に巡るのである。と言っても、平城宮跡は広い。図で見ると近いようだが、それぞれの地点の間の距離がかなりあり、その間はほぼ草むらで埋められている。スタートしてからすぐに雨が強くなり、しかも風があるので傘を差しても服が濡れる状態になった。馬場先生はいわゆるヤッケの軽装で、傘もささずしかも無帽である。さすがに長年野外の発掘現場で鍛えただけのことはある。

■壬生門・朱雀門

平常宮 復元された朱雀門
今回撮影していなかったのでフリー画像を使わせてもらいました

 最初に巡る場所、生門は宮城内から見れば正面玄関朱雀門の左側、朱雀門が奈良時代前半の大極殿に直結した、正面玄関的な位置にあるのに対し、壬生門は奈良時代後期の大極殿とその関連施設に繋がっている。壬生門とは建築を受け持った豪族壬生氏からとった通称で、正式には美福門と言う。奈良時代前期は朱雀門、後半にはこの壬生門が宮城の正面玄関となった。朱雀門は建物が復元されているが、壬生門は礎石の復元にとどまっているので、奈良後期の正面玄関の威容は想像するしかない。

馬場先生のツアー・ガイドブックより「木管」

 兵部省(武官の人事、全国の兵士と兵器・軍事施設などの管理)、式部省(文官の人事考課、礼式、叙位及び任官、行賞、役人養成機関管理)の二つの役所は壬生門の内側にある。現在は役所の建物があったであろう場所が示されているのみで、想像するしかない。平城京に関しては当時の図面などが何一つ残されていないのだ。この辺に兵部省と式部省があったと推測できるのは、一つは平面図が残る平安京のレイアウトからの推測である。もう一つは当該の役所の存在を示唆する記述が残る木簡が付近から出土したことである。木簡と言ってもまるごとそのままのもの(もちろん満足なものは少ない)と再利用のために表面の文字を削ったその削屑(一部の研究者は資料として畏敬の念を込めて「花かつお」というらしい)の二種類がある。1961年に画期的な木簡が発見されて以来平城京跡での出土が最も多いが、京があった場所を中心に様々なところで出土し、今では全国で50万点ほどに及ぶ。未解読のものに加え新たに大量に出土の可能性もある。木簡は単に紙が高価だったから使用されたのではなく、木という材質の使い勝手の良さもあって大量に使われた。何より、削って再利用ができるのが大きい。それが今の研究に役立っているわけである。それらに記されている情報の中で面白いのは勤務評定に係るものだ。前年と今年の評価、官職、位階、姓名、年齢、それに出勤日数が記されている。基準となる勤務日数は半年で120日以上だが(休みは6日に1日)、この基準に満たない場合が多いそうだ。評価は「上中下」の三段階で、当然だが、「中」が最も多い。しかし、中には「下」と記された者もいて、研究たちはこれを見てひとしきり同情していたそうである。一般の役人は早朝(冬は午前7時ころ、夏は午前5時ころ)から晩(冬は午後5時、夏は午後7時ころ)までのハードワークであり、超過勤務があっても残業代はつかない。食事は支給され(朝、夕の常食)、時には昼(間食)も出る。ろくな暖房もない土間では冬の勤務は厳しいだろう。兵部省には露天の広場が付随しているが、ランクの低い役人たちは朝夕にここに整列させられ上司の訓示を受けた。その慣習は現代の小中学校の朝礼に引き継がれているわけだ。1300年前の平城京でも現代でも、人間というのは一人でも集団になっても大きくは変わらない。

■平城宮東辺地区へ

 さて、これから向かうのは平城宮東辺地区だ。ここに行くためには草むらの中の道を歩かねばならない。東辺地区と聞くと殺風景な野原が想像されるが、この地区には立派な復元建物がある。その一つが建部門(たけるべもん)だ。宮城の門らしく堂々としているが、朱雀門ほどの華やかさはない。復元に際しては、奈良時代の建物として現存する法隆寺東大門(夢殿につづく)をモデルとしたそうだ。この地区には皇太子の宮殿があったので、その玄関も兼ねていた。この門の内側から向かって左に塀に囲まれた区域があり、塀越しに建物のトップ(望楼)が見えている。ここが楊梅宮(やまもものみや)、皇太子すなわち東宮のための宮、東院があったところで、平城宮後期の庭園が復元され、庭園入口に発掘された遺跡の西建物が復元されガイダンス施設として使われている。しかし、寒い。早く建物の中に入りたい。施設に入って、庭園のレイアウト、建物の構造について馬場先生の丁寧な説明を聞いているうちになぜか足がガクッとして急に眠たくなる。寒さのせいだ。冬山で眠たくなってそのまま凍死する話を聞いたことがあるが、なるほど人は寒いと眠たくなるのだと初めて実感した。他の人は大丈夫なのかと見まわしてみたが、やはり寒そうである。修二会並みに厚着をしてくればよかったと後悔したが、遅い。ようやく中に入った東院庭園では宴会や儀式が行われたそうで、そのための建物も付随している。塀越しに見えたのはその建物だが、当時実際に同じ建築物が建っていたかは定かでなく、あくまで推測による復元なのである。建築に使われた木材も輸入材を使用しているため、しばらくしてから狂いが生じた。第一次大極殿復元のために国内で調達可能な良材(主に紀伊山脈の檜)を使ってしまったので、台湾からなどの輸入材に頼る以外なく、第一次大極殿と同様に国産の木材を使用して建物を復元するにはかなりの時間が必要だそうである。復元と言っても図面が残っていないので、遺構(平面構造はわかる)を元に他の資料などを参照しながら推測して進めるしか手立てがなく、簡単なものではないのである。それに、建築材料(木材)の問題もある。復元と聞くと当時と全く同じものが建っていると考えがちだが、あくまで推測を元にしてそれらしく作られた「模型」である。新資料の出現、研究の進み具合で大幅な変更が必要となる可能性が十分にあり、少ない予算をおいそれと復元に遣えない事情もよく分かった。寒さに凍えた脳みそでも馬場先生の話は十分に届く。中華人民共和国の名勝古跡においてコンクリートの極彩色でお手軽に「復元」された古代の宮殿や建物を見て唖然とした経験があるだけに、このような姿勢は非常に好ましいと感じる。もっともそれ以前に、平城宮跡は史跡なので、遺跡保存のために原則として建物は建てられないのだ。なにしろ、平城宮跡で調査が終わっているのは全体の三分の一強程度なので、ほとんどの場所は未発掘なのである。

■阿弥陀浄土院跡にて

法華寺旧境内 阿弥陀浄土院跡 庭園の景石
奈良市ホームページより)

 さて、東院庭園から宮城の外にちょっと出て、阿弥陀浄土院跡を見る。草むらの中に花崗岩の大きな立石(阿弥陀浄土院に設えられた庭園の景石)があるのみで、ここに寺があったとは言われなければわからない。この寺は藤原氏建立の法華寺の子院で、光明皇太后の追善供養を行うために造営された。発掘はまだ部分的だが、貴重な遺跡であることから、国の史跡に指定され保護されている。法華寺の十一面観音は国宝に指定されている七体の十一面観音像のうちの一体で、しばらく前に拝観した。私が好きな聖林寺の威風堂々とした観音像とは対照的に小ぶりだが、美しい姿である。拝観したその日は初秋で天気が素晴らしく良く、今回とは逆に法華寺の方からぶらぶら歩いて平城宮跡に入ったことを覚えている。

 これから法華寺の横の路を通って第二次大極殿があったエリアに赴く。だいぶ寒さに慣れてきた。歩いて体を動かしているせいだろう。脳みそも解凍されつつある。SD2700地区とは内裏・朝堂院地区と東方官衙地区との間に位置する南北に走る溝で、いわゆる東大溝と呼称される基幹排水路であり、莫大な量の遺物が出土している。この周辺は平城京のオフィス街とも言うべきところで、官衙すなわち国政の中枢機関が集まっていた場所だ。とは言え、もちろん復元建物もなく、往時をしのばせるものは何もなく、さらなる発掘調査を待って草が茂っている。 

■東区施設と内裏へ

 最後は東区の中枢施設と内裏で、第二次大極殿の基壇があるエリアだ。奈良時代後半にはここに朝堂院もあったわけだが、いわば目と鼻の先に大極殿をなぜ移さねばならなかったのかが疑問だった。今回分かったことだが、第一次大極殿のあった場所は外国の客を迎える公的な空間で、第二次大極殿の場所はもとより天皇家の私的空間だったのだ。第二次大極殿の周辺エリアには歴代天皇が行った5時期分の大嘗祭の遺構があり、それを裏付けている。この二つの空間はもとから併存していて、奈良後半に第二次大極殿が建つことによって公的空間と私的空間が合体したのだ。第一次大極殿の場所は上皇のための宮殿となった。第二次大極殿の場所は基壇や礎石が復元されただけで、なんとなく物足りないが、まだまだ調査途上なのである。調査が始まって60有余年だが、調査が終了しているのは遺跡全体の四割弱にすぎず、新たな発見を待って大量の遺構、遺物が土の中に眠っているのだ。今回のツアーでは、遺跡、遺構そのものより、調査、発掘したものの保存、それを巡っての様々な検討の有様などにまつわる話が印象的だった。大変次回は、春あるいは初夏の時期に来て、ツアーで通った道順にじっくり巡ってみることにしょう。

 今回の文章は、寒さで凍った脳みその記憶を補うべく、馬場先生の「平城宮散策ツアーのしおり」に加え『日本古代国家建設の舞台 平城宮』(渡辺晃宏 新泉社)、『平城京の役人たちと暮らし』(小笠原好彦 吉川弘文館)を参考にしました。

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