The Cabinet (ジョージ・ワシントンの内閣)3
3.ジョージ・ワシントン政権の内閣はどんな機能を果したか
著者、Chervinsky氏はワシントンとその内閣が直面した数々の困難のうち、外交問題としてフランス革命に伴うアメリカの中立宣言、内政問題としてウイスキー税反乱(Whisky Rebellion 1791年~1794年)、の2つを取り上げている。この2つの問題では、大統領権限の可能性が示され後世の前例となると同時に共和主義と連邦主義の鋭い対立を示すものとなった。
▶外交問題
まず、外交問題を取り上げよう。1793年フランスはイギリスに宣戦布告した。戦線はイタリア、ドイツ、スペイン、さらには西インド諸島にまで拡大、フランス、イギリス、スペインの植民地を巡る争いとなった。ワシントンをはじめ閣僚たちはこの戦いに巻き込まれることはアメリカにとって大惨事をもたらすと考えた。アメリカの経済はイギリスとの戦いからようやく回復の兆しを見せ、農業生産も順調で、アメリカの信用回復とともに通貨もようやく安定してきた。戦争になれば大西洋をまたぐ貿易にも大打撃となる。ワシントンはハミルトンとジェファーソンに欧州の戦いで中立を保つための戦略策定を命じた。それまでワシントンは閣僚たちと文書を交換し、その後一対一で会談するというやり方をとってきたが、1793年になると閣僚たちを招集して閣議を行うことが増え、この年の閣議は51回に及んだ。アメリカの中立はそれだけ重要な問題だったと言えるし、その後の外交問題対処において貴重な先例となった。もちろん、ワシントンとその閣僚は先例となることを意識して考え、行動したのである。
欧州の戦争に関してワシントンと閣僚の閣議のアジェンダは主に4つあった。まず、政府として中立宣言をすべきか。宣言するとすればその文言はどうあるべきか。次いで、フランスから公使を迎えるべきか。迎えるならどのような条件を提示すべきか。戦争の危機はフランスおよびイギリスとの条約関係にどのような影響を与えるか。最後に、危機解決にあたって議会はどのような役割を果たすか。このアジェンダ設定(特にフランス公使の問題)はハミルトンがワシントンに押し付けたものだとジェファーソンから抗議があったが、実際はワシントンが考えて決めたことだった。
中立の立場をとることについては閣僚間で異論はなかったが、問題になったのは中立とはっきり宣言するか否かで、1978年まで駐フランス公使を務め、フランスに同情的なジェファーソンは曖昧な言葉遣いを求めた。「中立」と言い放ってしまうと、補給拠点としてアメリカの港を使いたいフランスの利益を損なうと考えたためである。それで主要な文言は、「合衆国は交戦下にある諸国に対して友好的かつ等しくふるまうものとする」となった。司法長官ランドルフの助言によってneutralの代わりに「等しく」(impartial)が用いられた。言い方は曖昧であるが、意味は十分に通り、この文章が「合衆国中立宣言」として知られるようになった。
続いて、駐米フランス大使の問題があった。18世紀の慣習では大使の受け入れについて、国家間で同盟関係があれば、受け入れは「無条件」で、数々の特権が認められた。国同士の関係を規定する条約が結ばれていない場合は「条件付き」となる。フランス革命政府が新たに大使として派遣しようとした「市民ジュネ」エドモン=シャルル・ジュネ(Edmond-Charles Genêt)の扱いを巡ってジェファーソンとハミルトンの間で意見が対立した。アメリカとフランスは、独立戦争の最中にイギリス軍に攻撃された場合に互いの軍事的な支援を無期限に約束した防衛同盟を結んでいた。しかし、革命政府がルイ16世をギロチンにかけて処刑してから事態は大きく変化した。アメリカ独立戦争イデオロギーの継承としてフランス革命を評価していたジェファーソンとランドルフは、同盟は有効であるとしたが、ハミルトンとノックスはフランスの軍事独裁的体制はアメリカにとって脅威であり、同盟は一時棚上げにすべきと論じた。フランス革命のアナーキーが不安定なアメリカ国内に与える悪影響を恐れたのであり、フランスの大使受け入れの問題がフランスとの同盟関係の問題ともなったのである。加えて、イギリスをモデルとした産業政策を推進するハミルトンと農業政策を重視するジェファーソンの意見の衝突の場ともなり、収拾がつかなくなったので、ワシントンが最終的な判断を下し、ジュネの迎え入れを決定した。しかし、この話はこれだけでは終わらない。この市民ジュネが大騒動を起こすのである。

ワシントンたちが知らぬ間にエドモン=シャルル・ジュネはサウスカロライナ州チャールストンに到着していた。チャールストンでの大歓迎で舞い上がったジュネは本来であればフィラデルフィアに直行し信任状を提出すべきだったが、チャールストンにとどまり、船を4隻、アメリカ人をその乗組員として雇い入れ、私掠船(privateer、お墨付き付き海賊船、エリザベス一世時代のフランシス・ドレークの例など)として活動させ始めたのである。「旅の間中(チャールストンからフィラデルフィア)お祭り騒ぎは絶えることなく、フィラデルフィアに入ることはまさに自由の勝利であります。アメリカ人たちは幸せの絶頂を迎えています」とフィラデルフィアから本国あてに書いたジュネはまさに調子に乗っていたのである。慌てたのはワシントンたちである。駐米英国大使から、ジュネの乗船アンビュスカード号(The Embuscade 罠、待ち伏せなどの意あり)がアメリカの領海内で英国船を拿捕し、乗組員を捕虜にしたことを告げられ、これはアメリカの中立侵害であり、英国船と乗組員の即時解放を要求されたのだ。アメリカの中立宣言は、外国のいかなる船の船長もアメリカ国内の港で武器、備品の補給、船員募集を禁じていたはずだったが、中立宣言はその内容も侵害時の罰則と手続きも曖昧(意図的に)だったため、十分に伝わっていなかったのである。
フランスシンパのジェファーソンはジュネにアメリカ籍の船をフランスの私掠船として使うことを止めるよう忠告したが、甘かった。「市民ジュネ」と名付けられたジュネの私掠船はその後もイギリス船を2隻拿捕したばかりでなく、フィラデルフィアの港に拿捕した船とともに入港したのである。ジェファーソンは、中立宣言はジュネがアメリカに到着後に出されたものだと擁護したが、ハミルトンとノックスはイギリスの報復を危惧し、行政府がフランスに働きかけ拿捕した船と船員を解放させる、あるいはフランス船を国外に退去させるべきだと主張した。司法長官ランドルフはフランスの私掠船を国内の港に寄港できなくさせるとの折衷的な案を出し、ワシントンはこの案を採用、ジェファーソンにジュネに伝えるよう命じ、同時にイギリス船を回復できないことについてイギリスに謝罪するように命じた。ジュネはこれに応じず、それどころか独立戦争時にフランスから借りた金の返還を要求し、さらに、拿捕したイギリス船を私掠船に仕立て、「プチデモクラート」と名付けることまでした。ジェファーソンらは重ねてジュネの説得を試みたが、ジュネは、フランスの私掠船の港の利用否定はアメリカの大統領の越権行為であり、議会に直接訴えると脅した。ここに至ってジェファーソンもハミルトンおよびノックスと協議し、ワシントンの判断を仰ぐことになった。この間、ジュネはアメリカ国内でフランス支援のデモを組織し、北米大陸のスペイン領土攻撃のために軍隊の資金を手当てすることまでしていよいよ手に負えなくなった。こうしたジュネの活動が報道されるにつれ当初好意的だったアメリカの世論に変化が現れた。ワシントンは常にかなりの数の新聞、雑誌、パンフレットの類をモニターしており、こうした変化を感じていたに違いない。ハミルトン、ジェファーソン、ノックスを招集し、ジュネの行動について議論したのち、フランス政府にジュネの召還を求める決定を下した。ワシントンはさらに閣議を招集し、司法長官ランドルフの意見を求め、ランドルフはジュネ召還に同意した。フランス政府はジュネの召還を認め、代わりの大使を派遣することになった。この事件は、アメリカの行政と外交における重要な前例となった。議会は長期間の休会に入っていたため、この問題に対応できず、行政府がすべての対応を行い、翌年、議会はワシントンの定めた中立に関するルールおよび外交に関わる大統領の権限を認める法案を可決した。さて、ジュネ氏のその後だが、フランス政府はジュネに逮捕状を出し、このままフランスに送り返せばギロチン台行きは確実だったため、ジュネの逮捕まで進言したハミルトンも同情し、その助言により、アメリカ国内で身柄を保護する決定が下された。ジュネはその後アメリカで有力者の娘と結婚し、波乱万丈の人生を送るのだが、ジュネから4代後のエドモン=シャルル・クリントン・ジュネ(Edmond Charles Clinton Genet,)は第一大戦にアメリカ義勇兵の飛行隊、 ラファイエット飛行中隊(Lafayette Escadrille )で戦い、アメリカ人パイロットとして最初の戦死者となった。血の気の多さを受け継いだようだ。
▶内政問題
アメリカの中立の危機とほぼ同時に起こっていたのが内政の危機、ウイスキー税反乱である。1974年約30名の民兵が西ペンシルベニア地域担当の連邦徴税調査官ジョン・ネビル将軍のペンシルベニアバウアーヒルにある邸宅を囲んだ。ネビル将軍は逃亡したが、翌日、民兵は600人近くに膨れ上がり、邸宅を護る連邦陸軍兵との銃撃戦となり、独立戦争のベテランで民兵たちのリーダー、ジェームス・マクファーレン少佐、他に2名が死亡した。これがウイスキー税反乱の発端となり、大統領制、憲法、そして法による支配に対する大きな脅威となったのである。1792年議会は国内の蒸留酒に物品税を課すことを決めた。国債を完済するためである。連邦政府は国債以外にも連邦職員の給与、軍事費を賄うための資金を必要としていた。物品税であれば、貿易に影響がなく、さらに直接国税を課すことで予想される国内の反発も避けられる。このころの税は収入の多寡でなく世帯人数に拠るもので、貧乏人の負担が特に大きかったのである。それに一軒一軒回って税を徴収する手間も省ける。土地にかかる税を重くすれば重要な票田である地主たちの反発を招く。ウイスキー税は醸造者が払うもので、醸造者はそれをウイスキーの価格に転嫁すればよいし、消費者は直接税を払うわけではないから、政府の人気に影響を与えないだろう。このような目算でウイスキー税導入を決めたのだが、ウイスキー醸造者、すなわち農民たち(穀物そのものを流通させるよりウイスキーにした方が手っ取り早く儲けも多い。また。一部地域ではウイスキーが貨幣の代わりとして流通していた)の反発は予想を大きく超え、それまでも不安定だった地域の政情を一気に悪化させた。その地域とはヴァージニア西部、ケンタッキー、ノースカロライナ、ペンシルバニアの南部に属する地域だった。バウアーヒルの出来事の後、暴徒の数は7千人まで膨れ上がったが、このほとんどは土地を所有せず、またウイスキー蒸溜器も所有していない貧しい人々だった。すなわち、発端はウイスキー税を巡る騒動であったにもかかわらず、この頃になると広く経済的不満が爆発した形となっていたのだ。ワシントンは連邦政府としてこの反乱騒ぎに強い態度で対処すると決めていたが、閣僚の意見を尊重し、閣議を招集し意見を調整していったが、最終的に武力鎮圧を決断し、各州から提供された民兵1万3千人を自ら率いてペンシルベニア州西部に出動した。これは大統領が実際に軍を率いた最初の例であり、おそらく最後になるだろう。しかし、暴徒達は軍隊が到着する前に解散し、本格的な武力衝突には至らず反乱は終結した。逮捕から起訴までされた者は20名、この中で有罪判決を受けたのはわずか2名であり、彼らは大統領恩赦を受けて解放された。この反乱は樹立したばかりの連邦政府が、その法律の施行に際して、暴力的な抵抗運動を弾圧する意志と能力を持っていることを示し、また、政策への反対は議会で示すという、すでに進行していたアメリカにおける政党政治の形成に貢献した。武力鎮圧に乗り出したことでワシントンはむしろ称賛され、非難されたのはウイスキー税の発案者で武力鎮圧推進派のハミルトンで、この事件が彼の早期引退に繋がった。ウイスキー税そのものは第三代大統領トマス・ジェファーソンの代に廃止された。
この2つの例が示すように、合衆国議会がワシントンに憲法にも規定されない大きな権限を認めたのは分裂の危機にある新生アメリカ合衆国を救うためであり、ワシントンもアドヴァイザーとしての閣僚たちもその期待に応えた。アメリカでも権力の抑制と均衡を保つための三権分立が基本ルールで、建国時から立法府である議会も司法の府最高裁も存在したが、できたばかりで、「建付け」も悪く、十分機能することが見込めなかったので、ワシントンと閣僚の人間力に頼らざるを得なかったのである。
最後に
しかし、現在はどうだろう。今のアメリカ合衆国はワシントンの時代とは比較にならない世界唯一の超大国であり、世界に対する影響力は比類ない。その国のトップが憲法に規定されない権力を思うままに行使し、二流三流の政治家たちはそれを止めることもできない。今後、ワシントンやその閣僚たちのようなレベルの政治家が登場することはまずないだろう。力を善用する有能かつ見識がある政治家の出現が望めないのであれば、アメリカの政治は大統領の権限の問題を真剣に考える時期に来ていると思う。つまり、三権分立の原則にのっとり、行政、立法、司法の権限を等しく分散させることが必要だ。イギリスにそのモデルがあるではないか。
先に引用したトクヴィルは、「大統領の力が適度なものであれば、様々な党派が大統領の地位を求めて激しく争うことがなくなるだろう。権力が分散していることが民主主義の国家のためになる。それが権力の濫用防止になるばかりでなく権力の集中を妨げるからである。権力が分散していれば、党派は一時的な負けを甘んじて受け入れるようになり、他のところでの影響力発揮を追い求めるだろう。大統領の権力が適度であれば、選挙に勝つために民衆の心情を危険な方向にあえて煽るような無分別な輩が大統領のオフィスを求めるようなこともなくなるだろう。」と言っている。トクヴィルは大統領選挙に熱中するアメリカを目の当たりに見、それによって当選した第七代大統領アンドリュー・ジャクソンに会い、「その性格は粗暴で、能力は中程度である。彼の全経歴に、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」との印象を抱き、このような考えを抱くに至ったのだ。
ロシアの政治学者Dimitri Furmanがソ連崩壊後のロシアの政治体制を論じた中に、「サミュエルP・ハンティントン曰く、民主主義は勝者と敗者が交替する政治制度である。」(Imitation Democracy 2010年)とあった。イギリスの保守党と労働党のように選挙で勝ち負けを繰り返すが、それが普通のことであれば、勝者も敗者も結果を受け入れやすい。何より有権者がそれを選んだのだから。アメリカの民主党と共和党の関係も本来、民主主義原理の党と現実的な政策を打ち出す党が交替しあうことによってバランスが取れるはずだが、まるでショーのように大金をかけ、報道は選挙一色となり、それが数か月も続く大統領選挙が権力への執着に繋がる一つの要因ではないか。
最後に、ワシントン、アダムズ、ジェファーソンと続く大統領の内閣とトランプとの違いについて述べよう。トランプは彼の政策を支持する親交のあるビジネスマンおよび国の分裂を生む危険性がある特異な意見を持つ人間(スティーブン・バノンなど)を閣僚として選んだ。ワシントン、アダムズ、ジェファーソンは地域、経済圏、政治的信条などで偏りを避け、多様性のある人選を行った。結果として閣僚間に緊張関係(ジェファーソンとハミルトンなど)が生じても、リーダーシップを発揮して乗り切ったのである。また、トランプは関税によってアメリカの産業を保護し、「偉大なアメリカを取り戻す」政策を打ち出している。モノづくりを大昔に放棄して、利ざやによる金儲け経済を選んだアメリカの工業が昔に戻るわけでもなく、この政策は短期的な効果しか生まないだろう。ハミルトンらが建国初期に保護貿易政策を打ち出したのは揺籃期にあるアメリカの産業を護るためで、事情はまったく違う。トランプはわかっていると思う。短期的で良いのだ。次の選挙に繋がればいいのである(トランプは三選が可能だと言っている)。ジョン・アダムズの例がある。アダムズはフランスとの戦争を避けるための条約を結ぶために己の支持政党連邦党(戦争に積極的な姿勢を示していた)の支持を失い二選目を目指す大統領選挙に敗れたが、選挙に敗れることは承知の上で長期的な国益を考えて条約を結んだのである。ワシントン、アダムズ、ジェファーソンは己の評判(評価)を常に気にしていたと言う。歴史に己の評判をどのように残すか、それを意識しながら考え行動した。このことがトランプとの大きな違いだろう。トランプは己の任期のスパンでのみ考える。その間何とかなれば、それで良いのだ。その後状況が悪化しても、それはその後の人間が無能だからであって、自分の責任ではない。自分はうまくやったのであり、その後も自分がやればうまくいったはずだ、このように考えているはずである。
The Cabinetの著者、Lindsay M. ChervinskyはMaking the Presidency: John Adams and the Precedents That Forged the Republicをオックスフォード大学出版から2024年に出している。これは第二代大統領、ジョン・アダムズに関するもので、こちらも興味深い。ジョージ・ワシントンの残したものを後世に渡せるものにしたのはアダムズだったというわけである。この本がペーパーバックになったら手に入れて、いつか紹介したい。