The Cabinet (ジョージ・ワシントンの内閣)2

2.アメリカの“内閣”の始源―ワシントン内閣とその面々

  Lindsay M. Chervinsky著 ”The Cabinet”

Lindsay M. Chervinsky
The Cabinet

 アメリカの政治体制、特に大統領制のユニークさは今に始まったことではないが、トランプが出てきてそれが特に際立ち、世界を驚かせている。しかし、その源は初代大統領、ジョージ・ワシントンの時代にあるのだ。それを詳らかにしてくれるのが”The Cabinet”(著者Lindsay M. Chervinsky  出版Harvard Univ. Press)である。この本はワシントンが大統領に就任してから新生アメリカ合衆国が経験した内外の危機を、独立戦戦争時の幕僚を中心とした主要行政機関の長官たちとの会議を通じていかに解決あるいは解決を試みたかを仔細にフォローしている。主要行政機関の長との会議と書いたが、ワシントンは大統領在任中に「Cabinet」という言葉を一度も使わなかった。前宗主国イギリスの内閣と同一視されるのを恐れたためだ。独立戦争直後のアメリカではイギリスに対する反感が根強く、国王をそそのかし植民地に対し悪政を行わせたのはイギリスの内閣だとの考えがあり、国内の世論に敏感にならざるを得ないワシントンとしては迂闊に使えない言葉だったのだ。

  ジョージ・ワシントンの内閣と施政

 ワシントンは大統領として国政に臨む方針として司令官としての経験を基に4つのことを決めた。最初に、独立戦争時の軍議のやり方に倣って閣議を行うこと、次いで、重要な決定や連絡事項を常に把握可能にする管理システムを構築し(ワシントンは実にこまめに手紙、メモを書き、部下にも同じことを求めた)、そして、戦場において司令官の副官が行うように細かな点については部下に権限委譲し事を行わせた。また、司令部にいたときと同様な人間関係と交流を維持すること、最後は、独立性の高い行政府を生み出した連合会議(Confederation Congress、1781年3月1日から1789年3月4日までのアメリカ合衆国の政体)の決定を尊重することである。連合会議の尊重を除けば、すべてワシントンが司令官としてイギリスと戦った時のやり方を踏襲し、戦場の人間関係とその雰囲気までを大統領の執務室(当初は彼の自邸の書斎)に持ち込もうとしたのだ。

 「国民は私に期待しすぎている」と洩らしたワシントンは大統領就任時から新生アメリカ合衆国の将来に大きな不安を持っていた。この国が生き残れるかどうか。ワシントンが大きな不安を抱くのも当然で、独立直後のアメリカは内外で様々な危機に直面していた。まず、13の州でスタートした合衆国議会(United States Congress)は州それぞれの独立意識が強く、特に北部と南部の州の足並みがそろわないことだ。州は、北部(ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット)、中部(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウエア)、南部(メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア)と3つの地域に分かれ、北部と南部の経済的特色は著しく異なり、中部はその中間的な特色を有していた。

 北部の州はピューリタン優勢で、自主独立の気風が強く、豊富な水力や木材を利用した工業が発達したが、大規模経営農業は発展しなかった。南部ではカトリックが優勢で、プランテーションとよばれる大規模農業経営が盛んに行われ、そのための労働力として「輸入された」アフリカ人を奴隷として使役した。北部と南部の州は経済的利害関係が対立し(北部は海外との競争から国内産業を護るための保護貿易を、南部は主産物の綿花の輸出増大のための自由貿易を主張)、さらには政治的主張の対立(北部は連邦政府の権限拡大と統一の強化を意図した連邦主義、南部は連邦政府の権限を制限し、州の主権を護るために州権主義を主張)もあって、北と南にいつ分裂してもおかしくない状況にあったのだ。

 さらには、独立を勝ち取ったと言え、イギリスとはまだ北米大陸の土地を巡って争う緊張関係が続いており、実際に1812年に米英戦争が勃発している。加えて、独立戦争時にはイギリス側に立ったアメリカ先住民部族(nations)との土地を巡る難しい交渉も控えていた(ワシントンはこれを内政ではなく、外交問題として捉えていた)。つまり、ワシントンが初代大統領に就任した時期のアメリカ合衆国は非常に不安定な状態であり、国中が新たな戦いの火種に満ちていた。ワシントンが戦場の雰囲気や体制を執務室に持ち込んでも不思議ではない状況だったのだ。

  ジョージ・ワシントンへの信任としての権限

 アメリカ合衆国を分裂の危機から救う存在としてワシントンは大きな期待をかけられ、そのために十分な力を発揮するべく議会から大きな権限(憲法上の規定を超える)を付与されたが、その力をどのように使うかすべてはワシントンに委ねられていた。それにはまず主要行政機関を統べながら彼を補佐する人々、すなわち閣僚を選ばねばならない。

  ジョン・アダムスら閣僚の面々

副大統領 ジョン・アダムス

 ワシントン大統領第一期の副大統領は第二代大統領となるジョン・アダムズ(John Adams)が務めたが、強い権限を持つ大統領に対して、アダムズ自身述べているように「(副大統領は)人類が 発明した最も無意味な職務」(”the most insignificant office that ever the invention of man contrived or his imagination conceived.”)で、閑職だった。一方で、閣僚たち、すなわち主要行政機関の長はきわめて有能だが個性的で一筋縄ではいかない人物が揃っていた。この本での順番に従うと、ヘンリー・ノックス(Henry Knox)、エドムンド・ランドルフ(Edmund Randolph)、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)、アレグザンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)、ウイリアム・ブラッドフォード(William Bradford)の5名だ。ワシントンの初代内閣のメンバーは最初の4名で、ノックスは陸軍長官、ランドルフは当初司法長官だったが、ジェファーソンの引退後は国務長官を引き継ぎ、ジェファーソンは最も重要な職務である国務長官を、ハミルトンは財務長官を務めた。そして、ランドルフの後司法長官となったのがブラッドフォードである。

左より ワシントン ノックス ハミルトン ジェファーソン ランドルフ 

  ヘンリー・ノックス

 アメリカの金銀塊保管所として有名なフォート・ノックスにその名を遺すヘンリー・ノックスは日本人になじみがなく、アメリカでも半分忘れ去られている存在である。しかし、独立戦争での砲術の専門家(ほぼ独学で学んだ)としてのノックスの働きは特筆すべきもので、初代陸軍長官のポジションに相応しい数々の功績を挙げた。ノックスは戦場での働き以上に戦いに必要な武器、兵隊、物資の確保と流通すなわち兵站方面で力を発揮し、大勝もしないが大負けもせず、海を越えて軍隊を送らねばならないイギリスに出血でなく出費を強いて根負けさせるアメリカ大陸軍(Continental Army)の戦略に大いに寄与した。しかし、その兵站の確保維持において州の各代表が参加し意思決定主体であり大陸会議(1781年に「連合会議」)の現場理解レベルの低さ、決定の遅さに終始悩まされたため、現場がより力を発揮できる体制を求め、大統領の権限強化とその力の発揮のために意を尽くし、特に力の行使(力の誇示を含めて)が必要な時にワシントンをよく支えた。

  エドムンド・ランドルフ

司法長官エドムンド・ランドルフはおそらくノックスより忘れ去られた存在だが、ワシントンの顧問弁護士を長年務め、個人的にも非常に近い関係だった。彼は法律に精通しているだけでなく、いわゆるリーガルマインドの持ち主で、的確な状況判断ができた。ワシントンは、自分のすべての判断および行動が将来の「先例」となることを強く意識していて、発言と行動は慎重にならざるを得なかったが、ランドルフの的確な助言により時に大胆な行動をとることもできた。ランドルフはノックスと並びワシントンにとって最も頼りになる閣僚だったが、政治的な立場はジェファーソンの共和主義に近かった。

  トマス・ジェファーソン

トマス・ジェファーソンは、あらためて紹介する必要はないほど、第三代アメリカ合衆国大統領として、「アメリカ独立宣言」の起草者として知られているが、閣僚としてのジェファーソンに触れたものは案外少ない。国務長官は大物ジェファーソンに相応しいポストだった。しかし、彼の政治的立場は共和政治の理念に忠実で、共和制の美徳の体現者として独立自営農民(ヨーマン)を理想化し、都市や金融家を信用せず、州の権限拡大の一方で連邦政府の権限縮小を厳しく求めた。国務長官としては、当時の状況を鑑み大統領の大きな権限を必要と考えワシントンを支持したが、連邦主義者アレグザンダー・ハミルトンと激しく対立し、政権とは距離を取るようになり、やがて辞任する。ジェファーソンはハミルトンを中心とした連邦主義者に対抗して民主共和党(Democratic-Republican Party)の党首となった。党派を結成することには乗り気でなかったが、主張を優先させたわけだ。民主共和党は現在の民主党の母体だという解釈もあるが、小さな政府などの主張はむしろ現在の共和党に近い。いずれにせよ、選挙勝利を目的に「民意」におもねる現在のポピュリズム政党と明確な主義主張を持つ当時の政党を比較することはできない。

  アレグザンダー・ハミルトン

 閣僚の中でジェファーソンと並ぶ大物がアレグザンダー・ハミルトンだ。独立戦争では総司令官ジョージ・ワシントンの副官を務めた。しかし、重要なのは軍歴のみでなく、ハミルトンは1787年のフィラデルフィア憲法制定会議の発案者で、アメリカ合衆国憲法の実際の起草者である。それに、古典『ザ・フェデラリスト』(The Federalist Papers)の主執筆者でもあり,民主主義の根本理念である「法の支配」に基づく憲法を生み出したことだ。ハミルトンは戦後ニューヨークに戻り弁護士を開業しながら公職にも関わったが、この時の経験から銀行融資、税、金融政策における政府の役割などの知見を深め、それまでのように州が中心の収税、財務政策では新生国家の財政破綻を招くと確信し様々な考えを巡らしていたが、財務長官就任後早速それらを実行に移した。新生の国家の財政、金融、貨幣、通商、そして産業政策に至るまでその基礎を整備したのだ。アメリカ合衆国経済にとって不可欠な初の連邦中央銀行の設立と初のアメリカ合衆国造幣局の設置による初のドル硬貨の発行はハミルトンによるものであり、産業資本をつくりイギリスを凌ぐ大産業国家に発展させるビジョンを打ち出した。そのためには強力な中央政府が必要であり、そのための連邦政府強化の施策はことごとくジェファーソンの共和主義と対立した。ハミルトンがこのような施策を実行できたのも大統領ジョージ・ワシントンの理解と信頼があったからであり、ハミルトンも全力でワシントンを支えた。ハミルトンは私生児として生まれ、苦学しながら学識と才能を磨いた立志伝中の人であり、その生涯はブロードウェイミュージカルにもなっている。

  ウイリアム・ブラッドフォード

ウイリアム・ブラッドフォード

 ウイリアム・ブラッドフォードは司法長官在任中に40歳の若さで亡くなっているため、閣僚としての印象は薄いのだが、独立戦争では2年間にわたり主戦場で活躍した。ワシントンの他の閣僚が戦いでは将軍あるいは幕僚クラスだったのに対してブラッドフォードは志願兵として参加し、最後は中佐で終えた。負傷に加えて過酷な戦場での働きがたたって体を壊し、フィラデルフィアの故郷に戻り、フィラデルフィアでは州の検事総長そして最高裁判所判事を務めた。ジェファーソン引退後、ワシントンはその後任としてエドムンド・ランドルフを任命したが、空席となった司法長官にブラッドフォードを据えた。ワシントンは戦場を共にしたブラッドフォードをよく見知っており、彼が大統領の権限強化に大いに寄与すると期待していた。ブラッドフォードはその期待に背かず、19か月の短い期間だが、内政、外交問題双方でワシントンを支えた。

 このように、ワシントンの第一期内閣は政治家というより、法律家、政治哲学者、軍人経験者などで構成されており、人物、識見ともに第一級と言ってよい人々で占められていた。また、ノックス、ハミルトン、ブラッドフォードはワシントンと戦場での苦楽を共にした人々であり、親しいばかりでなく、互いの信頼感も強かった。ジェファーソンの国務長官任命は連邦主義者ばかりとの非難を和らげる意図もあったが、ジェファーソンの実績、経歴は重職に相応しいものだった。一方で、ジェファーソンとハミルトンの間で共和主義と連邦主義の対立が深まり、その後のアメリカの政治に大きな影響を与えたことも否定できない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です