修二会

 もう一か月前になりますが、奈良東大寺の修二会に行ってまいりました。行ったというより参加したというべきでしょうか。修二会と言えば「お水取り」ですが、これは三月一日から十四日まで二週間にわたって行われる修二会十二日目の一つの儀式にすぎません。修二会は年の初めに豊作を祈る祈年祭に対応した仏教の行事と位置付けられ、東大寺の他に、薬師寺(花会式)、法隆寺西円堂、長谷寺などでも行われております。昨日(四月八日)は新薬師寺で修二会があり、写っているのは人の頭ばかりで前が見えない現場写真を妻がラインで送ってきました。新薬師寺を含めほとんどの寺院の修二会は一日間のみですが、前述のとおり、東大寺では二週間続く大法要で、「十一面悔過法要」(じゅういちめんけかほうよう)が正式な名称であり、ここから修二会ツアーで渡された資料から抜粋ですが、「二月堂(国宝、江戸時代)の十一面観音菩薩に練行衆(華厳宗の寺から選抜される)が精進潔斎、過去の罪障を懺悔し、その功徳により仏法興隆、天下泰安、五穀豊穣を祈る法要」です。東大寺の檀那は国家ですからねえ。

 関西では「お松明」と言うようですが、北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、夜六時から開始される法要のために練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通る際に真っ暗なので松明で一人一人先導される、その松明のことで、練行衆を先導した童子(呼び名は童子ですが、立派なおっさんです)が大松明を二月堂の正面舞台の欄干上から突き出し、振り回すのは一見の価値ありです。大きな松明を振り回し、それを持って舞台を走るのは相当な気力、体力、技が必要です。松明の動きは人によって違い、個性があります。それに気が付くと見方が変わってきます。ぐるぐる回る松明を撮影しようと皆が一斉に携帯を向けますが、松明の炎以外は真っ暗な中の携帯撮影ではボケ写真やボケ動画がせいぜいでしょう。フラッシュ、三脚禁止ですから、まともなカメラでも撮影は難しい。ここはカメラなど気にせず、自分の眼にしっかり炎を焼き付けることが肝要です。この大松明は寄進によるもので、その日に使う松明が並べられていますが、その中の一本に「さだまさし」と書いてありました。金を出せばだれでも寄進できるわけではないそうで、さだまさしも功徳を積んだのでしょう。しかし、こんなに次から次に盛大に火花が散ってよく火事にならないものだなと思いますが、実際に、平重衡の焼き討ちでも残った奈良時代からの建物は江戸中期に修二会の火がもとで焼失し、今の建物はその一年後に再建されたものです。運よく私は、松明はよく見えるが、火の粉の心配がない位置に陣取ることができました。火の粉はご利益があるとかで、わざわざ浴びに来る人も多いようで、コートに穴が開いても、これは修二会の松明の火の粉によるものだと自慢できます。建物の直下5メートルくらいが火の粉除けの非武装地帯になっていて、その後ろに土壇のようなものが三段あり、そこに善男善女が行儀よく立って並び、ひたすら上を見上げます。土壇ですが、直接上るのはご法度です。結構急なので、山登りで鍛えていない足ではずるずると滑り、下にいる人に迷惑をかけます。土壇の端に設けられた階段を使うのが正しい。

 私は妻の命により妻の友人が主宰する三月七日の修二会ツアーに参加することになり(集団行動は好まないのですが)、東大寺ミュージアムで大仏殿の基壇から発見された陰剣、陽剣(光明皇后が埋納)を観察。ツアー集合時間の三時まで南大門を見上げ、鹿を避けたりしながら過ごしました。二月堂舞台下の見物席(ではないでしょうが)は五時から入場可なので、それまで列を作って待ちますが、さすがにコンクリートの上に座るわけにもいかず、皆さんは折り畳みの椅子を持参しています。舞台下には余裕を持たせて四百人ほど入れるようですが、竹矢来で囲まれており、五時まで外で待たねばならない。しかし、竹矢来の中に入るのは磔にされそうであまり気が進みませんな。だんだん陽が陰ってきて、寒くなり始め、一人で来ていたらここで間違いなく遁走していますが、ツアーですからできません。周りを見ると、我々の列以外にもう一つ列ができている。これは松明見物でなく、夜の悔過法要に参加するために堂の中に入るのが目的です。二月堂の内部は十一面観音が安置され法要が行われる「内陣」を「外陣」が囲み、それをさらに「局」(つぼね)が囲むという複雑な構成になっていて、この「局」には一般の参拝者が入場可能で(一度に百人ほど)、ここに入るのが目的で並んでいるのです。「外陣」にも入れますが、ここには一般客は入れず、スポンサーなどの関係者席ですね。「局」に入るのは法要に参加する意思があって参加する人たちですが、スポンサー席は特権利用の方々で、大相撲の桟敷席利用の方々と同様、観光客気分であまり振る舞いがよろしくないと後で聞きました。待っている列の横には創建当時の姿を唯一とどめる国宝の三月堂(法華堂)がありますが、皆見向きもしない。ひたすら二月堂の方を眺めています。

 さて、五時になり竹矢来の中に入ります。私たちは北側の屋根付き階段のすぐ横、二段目の土壇の上に陣取りました。ここだと火の粉も落ちてこないし、大松明の先導で階段を上がる練行衆の姿もよく見えます。階段を上がる練行衆は全部で十名、すなわち十本の大松明が先導するわけです。これを眺めているわけですが、参列者からの声もなく静かな中で儀式は進んでいきます。しかし、寒い。奈良の冬は寒いが、三月のこの時期が最も寒いでしょう。しかも夜、さらには、二月堂は東大寺の最も高所にあり、風も吹きます。この寒さの中を天下安泰、五穀豊穣を祈る(自分のことなど祈ってはいけません)とは日本人もなかなかです。練行衆すべてが堂に入り、法要が始まると、「局」に入るための順番待ちをする人も多いようですが(法要は午前二時ころまで行われますので、局の人は当然入れ替わります)、私は寒さに我慢できず、ツアーもそこまでにして、退散し、帰り道に良さそうな居酒屋を見つけ、北海道のワインを飲み、刺身三点盛り、おでんなどを食いました。奈良の飲食店(チェーン店がほとんどない)はなかなか居心地もよろしく、食い物も酒も基本は地産地消でリーズナブルです。

 東大寺の修二会では期間中、日に六回、十一面悔過法要が行われますから、「日中」の法要は昼間に参加することもできます。妻は昼夜、都合六回ほど参加していました。夜の寒さに比べ昼はそれなりに過ごしやすいので、人出が多いが、たまたま寄る観光客も多い。私も翌日の昼に出かけ、「局」の外から法要を観ることができました。観るといってもすべてが見えるわけではなく、むしろ読経などの音を聴くと言うべきでしょう。様々な音が入り交じって独特です。私が昼間に行った三月八日はいわゆる「走りの行法」が行われ、練行衆の五体投地もあり、これも音を聴くと言うべきですが、なかなかすごい音で、全身全霊で体を板にぶつけています。さて、冒頭に述べたように「お水取り」は三月十二日から十三日にかけての行事で、この日の人出は非常に多い。報道の影響で、東大寺の「修二会=お水取り」はこの日一日だと勘違いしてくる人が多いとか。そのお水取りですが、二月堂の南側の石段下の閼伽井屋(あかいや)で香水(こうずい)を汲み、その香水は香水壺に蓄えられ、本尊に供え、供花の水とされ、その後に局にいる一般の参列者にも供されるのだが、外陣の内側から水を授けるので、外陣と局を隔てる格子から内側に向かって水を求めて数十本の手が一斉に差し出され、暗い中それがまるで千手観音の手のように見えると外陣にいた人から聞きました。香水は小瓶に詰められ、事務所で購入も可能と言っては有難味もないか。とにかく、夜と昼の修二会の法要を経験した印象では、仏教というより修験道や神道の要素も加わった多面的な行事だと感じました。

 残念だったのは、昼間の法要の時、海外からの観光客に加え修学旅行生も多いのですが、海外からの客が静かに手を合わせたりしているのに、修学旅行生はげらげら笑ったりで、騒がしく、ガイドが法要中です、お静かにと言って注意しなくてはならない。見えなくても音はしているのですから、何かしているなと気が付かないはずがない。この間、教師は生徒と肩を組んだり、携帯で写真を撮ったりでまったくお構いなし。先生というよりお友達ですな。東大寺では修二会の最中でその時期に訪れているという意識もないし、もちろん事前の勉強もない。何のための修学旅行ですかね。私が修学旅行で奈良を訪れたのは中学三年の時だったかな。その当時は東塔と講堂しかない寂しい寺でしたが、そこの副住職が面白い人で、後に管主になる高田好胤さんでした。話が面白すぎて眉唾物かなとも思いましたが、その年に亡くなった生徒の写真を同じ学級の生徒が持っているのを見つけた高田副住職がひょいと写真を取り上げ、いとも無造作に国宝の黒光りする薬師如来の膝の上に載せたのには驚いた。そして一言、「拝みなさい」。全員、その生徒の冥福を祈って真剣に拝みましたよ。今こうして書けるぐらいですから、この時の記憶は鮮明に残っています。修学旅行というものはこれほどでなくてもそれなりに記憶に残るものであるべきで、せっかく国宝を間近に見ながらその印象もろくに残らないような旅では、金を別なところに使ったほうが良いと思いますね。

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