日英の文芸作品に描かれる老い (2)

『おらおらでひとりいぐも』を読む

 子育ても済んで、思いもよらなかった最愛の夫の突然の死。40年住み馴れた家で老いを迎えて、独り明日を見つめる桃子、いつも、「わたし」と言うときに、一拍置くくせがある元主婦74歳が主人公。

 「自分の老いを想像したことがあっただろうか。ましてや、独り老いるなどということを一度たりとも考えたことがあっただろうか」一人嘆く毎日、心の内側で誰かが話しかけてくる声が聞こえ始める。

「それも一人や二人ではね、大勢の人がいる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。…話し手もおらだし、聞き手もおらなんだが、なんだがおらは皮だ、皮にすぎねど思ってしまう。」

その中から「オラダバオメダ、オラダバオメダ」という声が繰り返し聞こえる。

 性別不詳、年齢不詳、ばらばらな声の中から東北弁で自分に呼びかける声を聞いたということは、埋もれていて見えなかった「最古層にあるおら」自分の存在を見出しつつあるのかとも思えるが、その存在は心のうちに密生した無数の「柔毛突起」の中の一つに過ぎない。桃子さんの「おら」は、「他人と違う、唯一無二の存在」とは違う、無数のその他の乳毛突起と一緒にある、共存する存在であり、自己主張する、独立した「個人」ではなく、他者と依存しあう「人」としての存在であることを暗示しているようだ。

また、「甘えの欲求が自我によって統制されるにしたがって「自分」という意識が形成される。自我は甘えを否定するのではなく、甘えの挫折による孤独感に耐えることを通して形成される」(甘えの構造)、つまり、依存し、依存される甘えの世界にどっぷりつかってきたが、独りになり、その世界が一瞬失われることで生じた孤独感に向き合うことで、自分を見出しつつあるともいえる。

 そのような中、近くに住んでいても電話一本もよこさない娘から電話が入る。その電話は、息子を絵画教室に通わせるために必要な金の無心で、すぐには答えられなかったために、娘は拗ねて電話を一方的に切る。娘の母親に対するまったくの甘えである。甘えが受け入れられないと思い込んで「拗ねる」ことも甘えの挫折によって生じる心理の一つである。

 桃子さんは、そんな娘に対して申し訳なく思う。

「母に過剰にせき止められていたことを、過剰に与えようとしただけかもしれない。…

期せずして、娘を自分好みに思い通りに操ろうとしたのだ。」

 つまり、甘えているのは娘ではなく、自分が娘に甘えていたのだと感じる。一方で、はっきりとは自覚していないが、「人に甘えられている」との事実が一種の安心感をもたらしたようで、「受話器を置いたとき、桃子さんの目には力があった」。「自分がやりたいことは自分がやる。…子供に仮託してはいけない」とも思うのだが、甘えていた自分だけではなく、人に甘えられる自分を再確認したことが重要な契機になったと思われる。実際に、このトピックを境に桃子さんはひとり孤独感に耐えることを止め、積極的に外に出るようになる。

 ある日、喫茶店でソーダ水を飲みながら、ある予兆にとらわれ… 自分がこれから思いもかけない気づきを得る… 何かは分からないけれどそれはすぐそばまで来ている」感覚を得る。

ここから回想が始まる。その回想は直感的、非論理的に湧き出る。日ごろ、論理的に考えるはずの桃子さんが憑かれたように回想するのは、若かったころの自分、その周りの人、そしてその中心は死に別れた亭主、周造である。その周造は、「死によって繋がりが断たれたことにより、初めて一個の独立した人格として意識されるようになった。人間関係の中に埋没しまた日常生活の泥にまみれてしばしば見えなくなっている人の人間性があらためて見直される」。また、周造にぴったり寄り添ってきた桃子さんの自分も、周造と死に別れたことで見えるようになる。

 (「八角山」という故郷の山がシンボリックにたびたび登場するが、これは死に別れた亭主との「出会い」の場所であり、過去の自分、過去に自分と関わっていた人々と再び繋がるための場所を指すものだと思われる。)

能動的であり、受け身的であった様々な出会いと人々の回想は、主人公に様々な重要な気づきが訪れる。

 「老いると他人様を意識するしないに関わらず、やっと素の自分が溢れ出るようになるらしい。」と自分が見えてきた。

 自分が見えてきたことで、「前を向いていられるのは、自分の心を友とする、心の発見があるからである。自分はひとりだけどひとりではない。大勢の人間が自分の中に同居していて、さまざまに考えているのだ」と気づく。

「これまで涵養してきたのは従順、協調というような詰まるところ、いかに愛されるかに腐心してきたのであって、戦うというか、鍛えるというか、根を詰めるとそういう力をついぞ養ってこないまま今に至ってしまった」

「人一倍愛を乞う人間だった。... 人を喜ばせたいという気持ちも強かった。そのために、人が自分に何を要求しているかに敏感だった。...いつか人の期待を生きるようになっていた。...主張するほどの強い自分もなかったのだ。」と反省したうえで、

 「人は独り生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい」との悟りを得る。

周造が眠る墓地を訪れることで、最後の気づきを得る。

 「引き受けること、委ねること。二つの対等で成り立っている。おめとおらだ。」

 「与え、与えられる、愛し、愛される、依存し、依存される存在が自分であり、そのことによって自分以外の人(人以外も)と無限に繋がっていると感じるのだ。

 「生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで

気の遠ぐなるような長い時間を

つないでつないでつないでつないでつないでつなぎにつないで

今、おらがいる」

 そして、

 「ただ待つだけでながった。赤に感応する、おらである。まだ戦える。おらはこれからの人だ。まだ、終わっていない」と決意する。

 桃子さんは、人に甘え、甘えられるという相互依存の世界の中に他人と繋がりあう自分という価値を見出すことで、甘えを止揚したともいえる。

 『甘えの構造』の中の言葉を借りると、

 「人間は生命的枯渇感を覚えると、これを恢復するため今一度裸の人間にかえって感性的に生きようと決心する。そしてこの新たな探求は、母性的なものへの憧れ、いいかえれば甘えに導かれている」

 桃子さんの探求はまさにこれだと思う。

『Sense of Ending』読む

 物語は二部構成となっている。
 前半は主人公であるトニーの青春時代の回想であり、後半はそのトニーの老後である。事件は回想される青春時代に起こる。老後のトニーは、それは何であったのかとその謎に挑むのがおおまかな筋。青春時代の回想はあくまで現在の主人公の立場での回想。つまり、主人公の完全なる主観で物語られている(大事なことが抜け落ちている)。

 主人公のトニーには、高校時代、エイドリアンという友人がいた。頭がよく、常に論理的・合理的に行動する男だった。エイドリアンは大人になる途中のトニーにとって目指すべき「自己を早くから確立した」人物。
ふたりは別々の大学へ進学。頻繁に連絡を取り合うわけではないが、たまに会って遊んだり、手紙のやり取りをしたりする程度の付き合いが続いた。
 トニーには、大学でベロニカという恋人ができた。エイドリアンにも紹介したし、彼女の実家にも招かれた。短くない時間を共に過ごしたが、彼女の掴みどころのなさに辟易し(お互いに自己主張を繰り返し)、衝突して、トニーとベロニカは別れる。エイドリアンから手紙が届く。「ベロニカと交際することを許して欲しい」という内容のものだった。トニーには、嫉妬やら怒りやらのどうすることもできない感情が沸き起った。簡単に手紙を返信して(これが重要な鍵)、そのことはもう考えないようにした。 エイドリアンとベロニカの交際は順調なようだったが、エイドリアンは突然に自殺してしまう。ここまでが第一部。

 第二部となり、トニーの老後へと時間は飛ぶ。
 エイドリアンは、死の直前、とても幸せそうにしていたと共通の友人が言っていた。果たして、そんな人間が自殺なんてするものだろうか。なぜ彼は死を選んだのか。後半部分では、二つの謎が解き明かされていく。ストーリーを詳述するつもりはなく、特に第二部はぜひ読んでいただきたい。

 読みながら、主人公とその他の登場人間が交わす会話が特に印象に残った。控え目な桃子さんとは違い、相手を慮らない、主張の強いストレートな会話が交わされ、衝突や、すれ違いを生むのである。例えば、主人公が初めてガールフレンドの家に泊り、帰る日の朝、見送りに出てきたそのガールフレンドの父は、その妻に向かって「家のスプーンの数を数えただろうね」と言う。これにショックを受けるのは読者で日本人の私であって、主人公もガールフレンドの妻も大して気にした様子もなく、物語は進むのである。日本であれば、ボーイフレンドが多少気に入らないとしても、このようにストレートな嫌味を言うだろうか。

 ガールフレンドであるベロニカとの衝突の時は、「この利己主義者」というベロニカの非難の後に、「あなたは自分の考えること、自分が感じること、自分が言いたいことをしゃべるだけ」、「それなら言おうと思っていたことを言うのはよそう。もう友人ではありえないからな」、「いいわ、信じたいことだけ信じたら」との応酬が続き、その次の日にチャリティショップに彼女からもらったミルク差しを寄付に行ったら、すでに彼女へのクリスマスプレゼントのリトグラフがウインドウに飾ってあったという顛末。お互いに言いたいことを言って別れたら、相手の存在を感じさせるものをすぐさま消し去る自我の強さにも驚かされる。

 物語は、友人であるエイドリアンの自殺の謎と、エイドリアンの私生児の誕生の謎が軸に展開していくが、エイドリアンとベロニカが付き合い始めたと聞いて出した自分の手紙の内容を知り、主人公はそれにショックを受ける。手紙の内容からしてそれを忘れていたとは考え難いが、それは青春時代の回想が自分の都合の良いように編集されたものであることの証でもある。主人公はベロニカに謝罪のメールを送るが、ようやく帰ってきた返事は、「まだ、あなたは分かっていない。以前も、そしてこれからも分からないでしょう。だから、分かろうとしないでちょうだい」と言うものだった。主人公は苦労して情報を集め、人から話を聞きだし、十分に理解しようと努めているのだが、「分かっていない」と拒絶されたのだ。「分かる」ということは結局「察する」、「共感する」ということで、理解することとは違うのだ。この小説に登場する人々すべてが、日本人であれば不自然なほどあけすけに会話を交わすのに、すれ違い、衝突するのは、「察する」、「共感する」ことが出来ないからではないかと感じる。

 この小説には老齢期に関する様々な言葉が散りばめられているが、物語の後半に主人公はこう述懐する。

 「私は、人生を注意深く生きてきた私は、人生について何を知っているだろう。人生を勝ち取りもせず、失いもせず、ただ起こるに任せてきた私は?人並みの野心を持ちながら、その実現をあまりにもはやくあきらめ、それでよしとしてきた私は?傷つくことを避け、それを生き残る本能と呼んだ私は?勘定をきちんと払い、できるだけ誰とでも仲良くし、恍惚も絶望もかつて小説で読んだだけの言葉に過ぎなくした私は?自己叱責が決してほんとうの痛みにならない私は……? 私は特別な悔恨に堪えながら、これらのことを考えつづけなければならない。これまで傷つくことの避け方を知っていると思ってきた男が、まさにその理由から、いまとうとう傷つこうとしている」

 つまり、自分自身が自惚れで知ったかぶりで傲慢であると自虐的に語り、それでもなお自分自身が何者であるか自覚できず、結局、自分が何も分かっていなかったと自責の念や悔恨の情に苛まれる、言い換えれば、「察することができない」、「容易に共感できない」「(人の)深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には感知しない」、しかし、心の奥底では「察してもらいたい」、「共感してもらいたい」との願いを持つ人物の一人語りの小説なのである。

 『Sense of Ending』という題名は、主人公が老境に至って感じる諦めにも似た感覚を表すと同時に、

相互不信、不寛容が内在する、個性と個性が衝突し合う西洋的「個人主義」の時代が終末を迎えつつあるとの作者の感慨も表しているのではないか。

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