日英の文芸作品に描かれる老い (3)

【老齢問題への示唆】

 二つの小説に共通しているのは、老齢期に入り、肉親を含め周囲の人々との関係が疎遠になり、独り孤独に向き合う姿である。この姿は国を超えて共通である。

 桃子さんにとって独り孤独に向き合うのは苦痛を伴う。しょうがないという諦めに似たものはあるが、何とかしたいという気持ちもある。その気持ちがあるひとつの気づきに繋がり、桃子さんは独りでも前を向いて歩く自信を得る。桃子さんを突き動かしているのは、失われつつある人間関係を再構築したいという欲求だと思われる。

 英国の初老紳士トニーは独り孤独に向き合うのは運命であると捉えている。桃子さんのような葛藤はない。静かに老後を眺める。「個人」を、社会の構成単位というよりも、はっきりした自律性と選択意思を持った独りした主体と捉え、社会の主体的な構成要員とみなす西欧の思想から見れば、社会的役割を失った人間は「終わった」とみなされてよい存在なのである。しかし、老紳士にも損なわれた人間関係を再構築したいとの思いがあり、自らの誤りを認め謝罪したりするのだが、拒絶されてしまう。人間関係の再構築にも失敗し、「終わった」英国の初老紳士の今後の人生にはまだ先がある。しかし、独り生きていく人生は、「すべてのものの先には不安がある。大いなる不安があるのだ」ということになる。

 現在顕在化している老人の心の問題は、『おらおらで』の桃子さん、『Sense of Ending』のトニーのように喪失感であり、それがもたらす強い孤独感であり、桃子さんはそれを、自分と他者の一体感、繋がっているとの気づきを得て解決した。トニーは「結局自分は何もわかっていなかった」と諦めるしかないが、彼には「諦めて、耐える」ことができる強い自我がある。自分でさえも探し求めなければならなかった桃子さんが気づきに至らなかったら、どうなっていただろうか。老人の孤独感、喪失感は世界共通かもしれないが、自我と言う心の鎧をまとわない日本の老人の間では、それは耐えきれないものなのではないだろうか。

 現在の日本では、自律的行動主体の「個人」を根底に据えた欧米的なものの考え方と、人と人の繋がり、人間関係に重きを置く、つまり「人の間」重視の考え方が混在しているように思える。「個人」という存在になんとく違和感がありながらも、「甘え」、「恥」の概念で説明される日本的な行動パターンを後れたもの、前近代的なものとして遠ざける傾向があるのではないか。このことは十分見直されてしかるべきだと思う。

 日本の老人問題の重要な課題として、老境期の人間関係の再構築があるのではないか。桃子さんが見出した肯定的甘えの世界の「引き受けること、委ねること。二つの対等で成り立っている」人間関係、利他が自利に繋がる人間関係の構築で、それは既にその思想の基盤がある日本の社会では十分に可能なのではないか。

プライマリーな人間関係を代替し、自分が必要とされていると感じられる場所は「コミュニティ」かもしれない。今後の「コミュニティ」はクラブのような存在を超えて、老人が居場所を見つけるだけでなく、他者と繋がる実感を得られる場所としての機能がより積極的に求められるのではないか。

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