2024年の読書(6)

高橋典幸 『源頼朝

 山川出版社の叢書日本史リブレットの一冊『源頼朝』(高橋典幸)は、本屋で立ち読みをした際に、その冒頭に、神護寺伝来の「伝源頼朝像」の像主が頼朝ではないらしく、「私たちの頼朝イメージも神護寺像の束縛から解き放たれつつある」と述べていることに惹かれて購入した。「伝源頼朝像」は「足利直義」でほぼ間違いがないことが歴史的考証で明らかになっているのに、美術史家の間でそれにまだ意義を唱える人間がいて、定説を覆すのはなかなか骨が折れます。ちなみに、頼朝像として胎内銘文から鎌倉時代作成が明らかなのは甲斐善光寺伝来坐像であるが、「伝源頼朝像」とは顔がだいぶ違うが、いずれ、頼朝に相応しいと評価される日も来るだろう。日本中世史の大家、佐藤進一先生は大の足利直義好きで、NHKの大河ドラマ「太平記」の直義役(高嶋政伸)がミスキャストだと言っていたらしいが、「伝源頼朝像」=足利直義像と聞いて満足しただろう。あらためて「伝源頼朝像」を観ると、戦には強いが実務に弱い実兄、尊氏を補佐し、無窓国師と問答をするほどのインテリだった直義にふさわしい姿だと思う。

 さて、この本についてだが、平家を打倒した武人としての頼朝ではなく、鎌倉に幕府を開いた政治家としての頼朝像に重点を置いている。頼朝というと有力な東国武士に「担がれた」源氏の貴種として描かれることもあったが、実際は、彼らの力をうまくコントロールし(武士同士の対立、利害関係の利用)、必要だと思えば、ばっさり切ることも辞さない冷徹な政治家であったようだ。東国は父親源義朝が、割拠していた武士団をまとめ上げ勢力を築いたところで(平家がなぜ東国に頼朝を配流したか不思議)、義朝と東国武士の関係は主従関係の「譜代の家人」ではなく、従者の側に去留の自由がある「家礼(けらい)」の関係で、義朝の元家臣の中には頼朝が挙兵したとき、従わないばかりか敵対する者も多かった。また東国武士の関心はあくまで自分の周囲の地盤確保にあり、それ以外は関心が薄かったが、彼らをまとめて平家討伐に西国まで遠征させたのだから、その手腕は並々ならぬものがあったと言えるだろう。また、多様なコネクションを上手に使う人でもあった。私が感心したのは、今もそうだが、コネの大事さで、謀反人の子でありながら死罪を免れたのもコネクションのおかげ(特に母方の尾張の熱田大宮司家)、幕府を開き武家の棟梁となれたのも京都のコネクションをうまく利用したおかげだ。貴族や戦国武将が政略結婚に熱心だったのもわかります。情報収集分析能力にも優れていて、伊豆の流人時代に女遊びもしたかもしれないが、良い情報源があってそこからこまめに都の情報を収集し、状況把握を行っていた。鎌倉に幕府を開いた後でも戦いを進める一方で朝廷と様々に交渉を行っているなかなかの戦略家だ。『玉葉』(関白九条兼実の日記)は当時の状況を知る上で第一級の史料だが、面会した頼朝について、「威勢厳粛、其性強烈、成敗分明、理非断決」と記されているのも頷ける。

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