2024年の読書(4)
松浦寿輝 『明治の表象空間』
その印象的なタイトルに惹かれて試しに『明治の表象空間』(松浦寿輝)上巻を買ってみたが、面白いので中、下と揃えた。この本のユニークなところは、著者はそのつもりではないのかもしれないが、二種類の語りが交互に現れることで、一つは極めて難解なロラン・バルト流の構造分析で、エクリチュールとパロールで溢れている。一方で、きわめて入念な文献分析に基づいた明快な歴史記述があり、フランス難解哲学でボーッとなった頭をリセットしてくれる。難解なものの典型は序章で、「国体」という「表象」について述べたものだが、著者自身、「国体」とは言説できない表象、つまり、「表象を表象として機能させずに」おかれたものだと述べているのに、それを表象として分析する過程は同語反復以外の何物でもないように思えた。
「表象」だが、「なにか(に代わって)他のことを指す」という意味で、記号、イメージ、象徴(シンボル)の方が一般的な言葉だろう。私もこの本を読むまではタイトルから明治期における視覚的イメージも含めた内容だと思っていた。しかし、著者も「図像やイメージはとりあえず視野の外に置き、言語によって作動する「表象」のみを扱ったので」と言っているように、「表象」とは「言説」のことではないかと思うが、「明治の言説」ではタイトルとしてインパクトがないな。もちろん、著者があえて「表象」を用いるのは様々な言説「表象」がうごめく場(空間)を論じたかったからで、その場合には「言説空間」より「表象空間」が相応しいかもしれない。
さて、「表象」としての「国体」論に続き、明治の国家は「人々の日常に監視と支配の網の目を張りめぐらせた警察官僚国家であった」との認識に基づき、その中心的役割を担う内務省と警察について考察が行われる。その中心が西郷どんの暗殺を指示したとして地元鹿児島では不人気の川路利良である。彼は山田風太郎の小説(『警視庁草紙』)にも「敵役」として登場し、なかなか個性的な人物である。彼の国家観、特に国民観は著者が引用している以下の言葉に如実に表れている。「頑悪ノ民ハ政府ノ仁愛ヲ知ラズ。サリトテ之ヲ如何セン。政府ハ父母ナリ。人民ハ子ナリ。仮令父母ノ教ヲ嫌フモ子に教フルハ父母ノ義務ナリ」明治の為政者、官僚の国家・国民イメージを端的に示す言葉で、所詮、国民は無知蒙昧な子供のようなもので、たとえそうであっても国はしっかり面倒見てやらねばならないと言っており、国民蔑視も甚だしい。彼が作り上げた警察組織は「公共の福祉と安寧秩序の維持のために民衆の自由を制限する権力作用一般」を託されたプロイセン、フランスに範をとったもので、「市民的法益を侵害する刑事犯の除去に警察機能を限定する」イギリス、アメリカ型ではないのは、「愚かな民衆は当然愚かなことをしでかすのだから、監視を怠ってはならない(すなわち予防)」考えの当然の帰結である。この本で印象に残ったのは、上巻の上記の部分を含む徳川幕府崩壊によって一旦ばらばらになった土地と人民を再規定する明治の行政とそれを支える言説の部分で、明治、大正、昭和と続く日本帝國の本質を垣間見ることができる。次いで繰り広げられる福沢諭吉、中江兆民論も面白く、『福翁自伝』を読み直し、『三酔人経綸問答』を買いなおすきっかけになった。樋口一葉もさっそく『にごりえ・たけくらべ』を求めて近所の本屋まで出かけたが、北村透谷についてはその気にならなかった。
しかし、幕末から明治にかけて生き残り、その後の国家体制を作り上げた人物には下級武士上りが多い。川路利良がそうだし、江藤新平を梟首して写真まで撮らせた大久保利通もそうだ。伊藤博文もそうで明治十四年の政変でイギリス型議会政治派を追い出した。いわゆる上士出身は夭折(高高杉晋作、小松帯刀)か、品が良すぎて(木戸孝允など)影響力が限られた。川路と言えば、幕末の外交史に名を残し、幕府瓦解とともに割腹し拳銃で自ら介錯した川路聖謨がいるが(『東洋金鴻』)、ロシア帝国使節プチャーチンに「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と評された川路聖謨は滅びゆく徳川幕府とサムライの道に殉じた。一方で、明治の行政警察の基盤を作り上げた後、明治12年に早世した川路利良は明治のネーションステートに身を捧げたことになるのだろうな。