Why War?by Richard Overy
以下の文はリチャード・オヴァリー(Richard Overy)著のWhy War?の結び(Conclusion)部分のみを訳出したものである。原著は注を入れて400ページ近いが、この結びに内容が凝縮されていると思うので紹介する。それでも、本文を読んでいないと分かりにくい部分もあるので、途中注釈あるいは私的な感想を入れる(細字の部分)。
著者、リチャード・オヴァリーは1947年生まれのイギリスの歴史家で、現在、エクセター大学名誉研究教授。第二次大戦とナチス・ドイツについて多数の著作がある。私が彼の本を読んだのは、10年程前香港の本屋でたまたま面白そうな本を見つけて購入したのが最初だ。本のタイトルは、1939:Countdown to War。1939年の8月末から9月3日のナチス・ドイツのポーランド侵攻に至る一週間ほどの短い期間の当事者の動きを、第三帝国総統ヒトラー、英国首相チェンバレンに焦点を当てて記述したものだ。ヒトラーもチェンバレンも強腰に出れば相手が折れるだろうと考えていて、戦いの展開可能性についてノーアイデアだったことは確かだ。戦いになってもポーランドを含む東ヨーロッパが主戦場と限定的に考えていて、未曽有の大戦争に至るとはヒトラーも考えていなかった。大国が戦争の火ぶたを切るのは容易いが、それを収めるのは戦争当事者の間ではどうにもならない。それが現代の戦争だ。この本の結論部分(Conclusion)には副題が付いていて、それがWhy War?だった。今回紹介する本に繋がっている。
結 び
「何が戦争を引き起こすかについての説は夥しくある。説が多いということは、様々な考えが雑然と入り混じった状態で、アインシュタインがフロイトに求めたような筋の通った一つの回答は期待できず、ゆえに戦争の原因を十分に究明することは不可能であると見なされがちだ。これまでに示したように、過去一世紀もの間人間科学のあらゆる分野が戦争の原因を明らかにしようと試みてきたが、いまだに意見の一致はない。人類の歴史に戦争がなぜ絶え間ないのか、その原因ついてそのものずばりの回答はないということ、これは確かだ。つまり、戦争に関してその原因を一つに求めようとしてもそれは無益な努力なのである。だからと言って、戦争の原因究明ができないわけではない。時と場所によってその原因がいくつも存在するだけのことだ。実際に、戦争と定義される集団的暴力行為そのものも、新石器時代の死を伴う小規模な小競り合いから今世紀の熱核反応による人類絶滅の危機に至るものまで様々に変化してきたのである。」
アインシュタインは1932年にフロイトに宛て手紙を送り、質問した。「人類を戦争の脅威から解放する手立てはあるか。」このアインシュタインとフロイトの往復書簡は後に出版され、『ひとはなぜ戦争をするのか』のタイトルで講談社学術文庫から出ている。これに対してのフロイトの答えは、「暴力は人類を含む動物の特性であり、すべての生物に共通して存在する「死の欲動」(death drive)、すなわち、破壊に向かう心理的衝動に由来するものであるから、戦いそして破壊する欲望を抑制する効果的な方法はない」だった。まさに身もふたもない回答で、アインシュタインはひどく失望したという。しかし、著者も述べているが、戦争という集団的な暴力行為を個人レベルの心理を扱う精神分析で説明しようとするのが無理だともいえる。
戦争を受け入れがたくさせ、また、生起させないようにするための様々な制度や規範が作り上げられたのである。この考えは極論を生むこともある。政治学者のマイケル・ムソー(Michael Mousseau)は、過去500年間市場志向型の国家は自由な市場の規範と価値に自らを委ねてきており、戦争に向かう性向をゼロにまで減じて、「いずれ、恒久的世界平和に達するであろう」と述べている。人類進化上平和が常態であると論じる人々でここまで極論を述べる人々はあまりいないが、人類学者ダグラス・フライ(Douglas Fry)は、人類の過去は比較的平和であったとの説を唱える代表的な人物で、ミードと同様に、奴隷制度と同じように戦争を消滅させることができると論じ、国際紛争のエスカレートを抑制するための法、制度的な統治システムをさらに進めて開発することも唱えている。すなわち、「我々が直面している挑戦は地球規模の西部劇の舞台に保安官と判事を立たせることである。」 しかし、人類にとってこの挑戦は叶わぬ夢だった。平和こそ人類の目的地であるとの論の多くに共通する問題点は戦争の原因究明にあるのだ。なぜ戦争が起こるのか、その原因を正しく把握すれば戦争をなくすことが可能であるとの仮定は、すべての癌の究極的な治療法を発見するのと同じで、戦争の原因はあまりにも多様で歴史的にあまりに広範囲であるから、一つの有力な治療法あるいはその組み合わせであっても治療はできないとの反論は当然だろう。結局、保安官と判事も銃を突き付けて西部の荒くれ者を大人しくさせたのである。」
人類の過去はすばらしいが、徐々に堕落していくという考えはギリシャ時代からあるが、近年の世界各地での考古学の発見は、人類未開時代の平和は現代人の幻想に過ぎないことを教えてくれる。日本の例で、二世紀の後半と推定されている鳥取の青谷上寺地遺跡から5300点に及ぶ人骨片が発掘されたが、戦闘によるものと考えられる多数の創傷が認められ、中には解体痕もあるという。(鎌田謙一『人類の起源』)解体痕=食人であり、殺しただけでなくその遺体を食したので、これは時代、地域を超えたホモ・サピエンスにユニークな行為であるらしいが、栄養を補うために食したのか、それとも儀式的な意味があったのかは不明だ。おそらく両方だろう。青谷上寺地遺跡の人骨は倭国大乱(魏志倭人伝)を示すという。「人間は本質的に善である」ことを示すと考えられたノーブルサヴェージ(高貴な野蛮人)、つまり、コロンブス以前のアメリカ大陸でもピサロ以前の中南米においても人類は、資源争いで、あるいは労働力(奴隷)を確保するために、あるいは権力者の力の誇示のために殺しあってきたのだ。
「戦争が常の姿であるとケネス・ウオルツは主張しているが、そう考えるのは歴史家だけでなく他の人文科学の研究者も同じである。戦争が「常である」とは、戦争は異常なものではなく、人類の長いストーリーに不可欠な部分だという意味だ。さらには、集団的暴力行為が必要とされる事態が生じれば、どの地域においても、社会および政治体制がどれほど違っていても、規模の大小にかかわらず戦争は実行されるのであり、このことは、戦争一般の原因の根本的な説明がいくつか存在することを示唆している。結局、どのような社会であっても人類社会のふるまいに大きな違いはないのである。人類、特に男性は、長い進化の過程を通じて同じ種を大量に殺戮してきた唯一の動物種である。時には性別、年齢にかかわらず計算された残虐さで暴力を振るってきたのだ。このことは人類にとって千年前でも、すでに21世紀の四半世紀を特徴づける苛烈な争いの数々の中にあっても同じなのである。人類、特に現代人は人を殺すことに嫌悪感を抱くとの論に対しては、第二次大戦において社会の様々な層から成る数多くの人々がしばしば短い訓練期間を経ただけで数百万人の人類同胞を爆撃、砲撃そして銃剣で殺すことができたことが反証となるだろう。」
「人類が示す並外れた暴力を説明するにはいくつかの段階がある。最初の段階に含まれるのは、人類の進化に影響を与えてきた雑多な内的および外的要因である。 人類は遺伝子プールを保持し生殖に成功するために必要な時に暴力的に行動するよう生物学的に適応したという説が同種間の闘争を説明する際の基本的考えになる。この解釈によれば、戦争は遺伝子の中にではなく、遺伝子のためにあるのである。人間は本能的にではなく、意識的に行動するものであるから、生物的に戦うことが求められる際には、人間世界を「我々」と「彼ら」に分け、同種内の殺しを正当化するために、特に男性の場合集団的暴力行動を社会規範上の義務として受容する心理的性向を作り出して本能を補強する必要があるわけだ。古代の人間共同体が言語および記号文化を発展させることで、戦争に宇宙原理の表明あるいは必要かつ価値あるものとしての文化的な意味づけが可能となった。人間の文化的、生物学的側面はその長い過去において共進化を遂げることで、生物的、文化的どちらかではなく、両者、すなわち、生まれと育ち(nature and nurture)が共に、必要あるいは利益をもたらすと思われる時には暴力に訴える性向を強める条件を作り出しているのである。加えて、資源が枯渇し、資源を巡る人間同士の競争が激化する場合など、人類進化の環境が暴力的行為を誘発させる外的要因として働くときもある。」
文化が進み、洗練されれば戦争は無くなる、これも幻想で、なぜなら、戦いは文化の中に組み込まれ、戦いを支える勇気、力、技などが価値として認められているからだ。どの地域でも、子供(男の子)は兵隊の真似が好きで、日本ではチャンバラごっこであったりする。たわいない児戯であると言ってしまえばその通りだが、戦うことに何かポジティブなことを感じなければ、子供だってしないだろう。どの時代どの地域にも「ヒーロー」は存在し、それは勇気にあふれ、武に長じた存在でなければならない。日本刀は今では武器としてではなく、美術品として珍重されているが、武器としての凄みを感じさせるからこそ、美しいのである。イスラエルの戦闘行為を支持する米国のプロテスタント、福音派が誤りはないと信じる旧約聖書の記述には、戦争、敵を倒すことを正当化する文章がそこかしこにある。「そしてイェースース(ヨシュア)は、捕まえた者を全員殺戮し、疲れたといって殺戮を止めたり、敵に同情して助けたり、また略奪になって彼らを取り逃がしたりすることがないよう厳命した。生き物はすべて殺してまわればよいが、銀や金でつくられたものは拾い集めて保管するように命じた。」どこがホリーなのですかね。記述して残すこともおぞましい内容ですよ。また、軍歌は当たり前だが、国歌にも実に血なまぐさい歌詞があふれている。例えば、フランスのラ=マルセイエーズだ。「ゆけ祖国の国民 時こそ至れり正義のわれらに。旗はひるがえる 旗はひるがえる 聞かずや野に山に 敵の呼ぶを悪魔の如く 敵は血に飢えたり。立て国民 いざ矛とれ 進め進め仇なす敵を葬らん」名作『カサブランカ』でドイツ将校に対してフランス国民たちが歌う場面が印象的だが、この内容ではドイツ人たちも怒るわけだ。
「来る将来、戦争は間違いなく変化するだろう。戦争当事者は誰か、その動機は何か、それは予測不能だが、今世紀に生起した戦争を見ればその因果関係は常に同じである。計画的に戦争を消滅させることができるという考えは2000年から次々争いが生じている現実と相容れないし、今後数十年にわたって続く環境上の危機、資源を巡る緊張、宗教的衝突が戦争に結びつくことはこれまでの長い歴史が示す通りだ。現在およびこの先の国際秩序の中から今後戦いのない世界が出現するだろうと考える余地はほぼない。この一千年間、戦争の原因はほとんど変わっていない。この本の執筆中でも、世界のメジャーパワーはロシアのウクライナ侵攻を巡る大規模な争いに備えている。地上で対峙する重武装の軍隊、西洋諸国による代理戦争、核使用の脅迫が常に行われる現状を目の当たりにすれば、これまで執拗に繰り返されてきた戦争が過去のものになるとはとても思えない。戦争の歴史は長い。その未来もまた長いのである。」
著者は戦争に対して悲観的である。ホモ・サピエンスが地上でその存在感を示した時代から現代にいたるまで計画的かつ組織的な戦闘行為が常に繰り返され、しかもその規模(犠牲者)も飛躍的に拡大している有様を見る人間としては当然だろう。しかも、一時は大国間の戦争抑止力として機能した核が拡散して、戦術核レベルの脅威は高まっている。人類は今後も戦争と付き合っていかねばならないのだ。戦争をなくすことは当分できない。現在は、戦争の抑止、スケールダウンに注力するしかないのだろう。