ダンバー数
以下はペリカン叢書から出ているHow Religion Evolved(邦訳『宗教の起源』)という本の内容を要約しながら、ところどころ私の感想を挟んだものである。
チンパンジーやゴリラ、生物学的にはホモ・サピエンスもその一員である霊長類は、単独あるいは雌雄のペアではなく複数の個体によってグループを作って生活する。つまり偉大なる猿たちは集団生活を原則としている。類人猿たちの行動研究によれば、彼らが集団を作る主目的は外的危険からお互いの身を護るためだ。食料確保のためではなく、ましてや労働もしないわけだから、生産的な目的のために共同するということはない。今から30~20万年前にアフリカで猿の身分から成りあがったホモ・サピエンスだが、その当時から相当長い期間類人猿と同じく危険な捕食者あるいは他の集団に受身的に対抗する目的で身を寄せ合っていたわけだ。
では、その集団の規模はどの程度だったのだろうか。ホモ・サピエンス居住地遺跡状況、現代の狩猟採取民、遺伝的にホモ・サピエンスに最も近いチンパンジーの集団規模などから、平均的にメンバーは50程度であったと推測されている。我々の先祖は基本的に小集団ベースでつつましく暮らしていたのだ。しかし、集団にはメンバーの離合集散がつきもので、小さな集団でもメンバー間で常に一定の強度の絆を確保するためにはそれなりに工夫がいる。それがグルーミングである。体の衛生や機能維持のための身繕い(毛繕い)と区別するために社会的グルーミングと称される。グルーミングは霊長類のみならず魚類や爬虫類を含む数多くの生物で観察されているが、「グループの接着剤」としてグルーミングを行うのは霊長類特有と言ってよいらしい。一方で、群れの個体数が多いとグルーミングも大変で、餌探しや睡眠も必要なのでそれだけに時間を使うわけにはいかない(活動時間の1/5程度)。それで、霊長類の一つのグループの頭数はお互いのグルーミングが物理的に可能な範囲に留まると考えられている。それだと50程度がやはり限界らしい。しかし、ホモ・サピエンスは、「毛皮を捨てて進化した(逆か)」のだから、毛繕いグルーミング以外の手段が必要である。
その手段とはコミュニケーションだ。グルーミングもコミュニケーション行動の一つだが、ホモ・サピエンスのコミュニケーションは、身振り、音声、匂い、身体的接触のレベルを超えた知覚、感情、思考の伝達が可能だ。ホモ・サピエンスのコミュニケーション能力はある脳の部位の発達によって飛躍的に向上したのだが、その脳の部分とは大脳新皮質で、大脳の表面を占める皮質構造のうち進化的に新しい部分であり、合理的で分析的な思考や、言語機能をつかさどるものだ。この部位の進化により、他者の心を理解する力、すなわち他者の意図を読み取る力、すなわち心理学用語でメンタライジング(Mentalizing)の能力が向上した。コミュニケーションに果たす言語の役割は大だが、少なくとも話し言葉は今でも微妙な感情を十分表現できるほどのレベルに達していないので、(泣く笑う怒るなど伴わなければ)それ以上にメンタライジングの力が大きい。例えば、日常的なコミュニケーションである会話についても、会話が成立するのは話し手より聞き手の力に負うことが大きく、会話は、話し手の意図を読み取る聞き手の能力、つまりメンタライジングの力によって成立している。現代人についてこの能力は男性よりも女性で高く、女性同士の会話を傍で聞いていると(聞こえる範囲で)、相手の話を聞いているのかねと思うこともあるが、あれできちんと相手の意図が頭に入っているわけだ。大阪のおばちゃん同士の会話でもとにかく成立していることは間違いない。一方で、男は自閉症の傾向があり、他人の気持ちを読み取ることは苦手らしい。これは納得できる。心理カウンセラーには女性が多いが、その能力が男より上だからだ。政治の世界でも田中角栄流のゴリ押しは時代後れで、異なる意見の調整が必要であり、右翼以外の女性政治家に期待したい。
大脳新皮質の発達は個人と集団の関係に大きな変化をもたらした。脳のこの部位が大きくなるにつれて集団の規模に変化が現れ始めるのだ。集団の絆の維持には一対一以上の複雑な人間関係に対処しなければならない。「スーザンがミーティングは2時だと信じているかとピーターが聞くかどうかジェニファーが知りたがっているとビルは思っている」というような複数の人間の意図について同時に考えることが可能になった。しかし、このレベル(第5段階レベル、)にまで他者について思考が及ぶのは成人の2割程度しかいない。いずれにせよ、他者の意図を汲み取る脳の進化は物理的接触のレベル(類人猿が可能なレベル)を超えた社会集団を形成するのに寄与したのだ。ここで、社会脳仮説(Social brain hypothesis)なるものが登場する。社会脳仮説とは、人間の持つ高度な知的能力は複雑な社会的環境への適応として進化したという説である。一言でいえば、人間の脳は社会生活を営むことによって発達したわけだ。人間はまさに社会的動物なのである。人間は社会と一括りに語られるべきで「個人」とは神と人の間に何物も介在させない一神教文明の生んだ幻想の一つに過ぎないかもしれない。現在では情報技術により遠距離にある人間同士が日常的にコンタクトする機会も増えている。人間の脳の発達により人の集団は際限なく拡大している、あるいは拡大する可能性を持っているように思える。ところが、実はそうではないらしいのだ。人間の集団は一定以上の大きさになると不安定になり、分裂しやすくなるとの研究がある。
その研究は、今回紹介する本の著者、オックスフォード大学の認知・進化人類学者のロビン・ダンバー教授によるもので、この文章のタイトルのダンバー数(Dunbar’s Number)は、同教授が人間個人と集団の関係について提唱したものだが、古来、洋の東西で知恵として共有されていたことをあらためて検証したものと言うべきかもしれない。ダンバー数とは、人間が安定的な社会関係(ソーシャルネットワーク)を維持できる人数の認知的な上限とされている数で、それは平均で150(200の説もある)である。認知的上限(Cognitive ceiling)とは個人が同じ集団に属するそれぞれの人を認知し、その関係についても知っている、その限界的な集団の大きさである。つまり、集団の大きさが150名までであれば、集団の成員が円滑に安定的な関係を維持できるということだ。この数字は同教授と他の研究者たちが、類人猿の集団数をベースに多様な人間集団、人間関係にまつわる数値を集めて分析した結果得たもので、興味深いのは年代、地域を超えて共通性が認められることである。つまり、ヒト属で現存する唯一の種であるホモ・サピエンスに歴史以前のはるか昔から現代に至るまで共通する傾向なのだ。150というのは欧米ではクリスマスカードを差し出す相手の数が平均してこのくらいで、日本では年賀状の数にあたる。私が毎年プリントする年賀状の数は多い時は200を上回ったが、現在では安定的に150で推移している。
一方、150名の中でも関係に強弱がある。非常に近い関係から顔見知り程度までいろいろあるだろう。ダンバー教授は、一個の人(Ego)を中心に関係の強さでさらに集団規模数を推定した。その結果は、Close Friends(最も親しい友人やパートナーの数)5名、Best Friends(ほぼどのような状況下でも心から信頼できる人の数)15名、Good Friends(危険な場所でも安全に往来できる小団体)50名、そしてFriends(グループで一緒に暮らすのに最適な人数)150名となった。150の外側にはAcquaintance(出会うと会釈する程度の顔見知りの人数)500名、さらに、Known names(人間の長期記憶の情報数の限界、頭の中で名前と顔が一致する人数)1500名と拡がる。これは「5-15-50-150-500の法則」とも言われている。3の倍数であることも興味深いが、これについては理由がよくわからない。多分意味があるはずである。さて、この数字も文化的、地域的に大きな違いはなく、人間関係は非常に近い存在から顔見知り程度の関係まで同心円状に広がっていくのである。実際この数字は馴染みがあるもので、例えば軍隊の編成だが、最小ユニットの「分隊」が15名程度、その上の「小隊」が50名、その上の「中隊」が150名規模とダンバー数と合致している。私が勤務していた会社でも、最小ユニットの「部」は多くても15名程度、「室」という単位では50名、「局」で100から150名だった。某世界的トイレタリー企業のマニュアルには「プロジェクトチームのコアメンバー数は10名以下に止めること。それ以上になると生産的チームではなくなり、一体感を失い、互いに批評しあう「委員会」になってしまう」とあった。仕事の現場は、ダンバー数の知識の有無にかかわらず、生産的なチームをどのように編成すべきか経験で知っているのだ。実際にダンバー数の知見を取り入れ、会社組織の上限を150名に限る企業(Gore-Tex)もあるそうだ。それを超えたら分社するのだ。
日本人の遺伝子は案外複雑で、単純に縄文系、弥生系と分けられないという。いろいろな人々が様々なルートで日本列島に渡ってきたのだが、一気に大勢で流れ込んで来たのではなく、その際は多くて50名(危険な場所でも安全に往来できる小団体)ほどの集団で綿々と何百年(何千年)も長い時間をかけて渡ってきた。ホモ・サピエンスが故郷アフリカを出るときも同じようであったらしい。大胆に行動するときは気心が知れた者と共にしたいと思うのは当然だろう。当時の50名の集団とは基本的に血縁関係である(氏族)。現在の狩猟採集民の集団が50名程度だから、移動しながら生活するのに適切な数である。それが定住するといくつかの集団が集まって150名程度のコミュニティが形成され、そのコミュニティがさら複数集まれば部族となる。意思疎通に支障がない言語の共有が集団形成の条件となる。
現在の社会では多様な集団があるが、そのサイズは、150とか200では収まらないだろうし、人間の脳みそは大きな集団でも対応できるように発達したのではないかとの意見があるかもしれない。しかし、人間の脳は一対一を超えた集団の中の複雑な人間関係に対応できるように発達したのであって、帰属する(あるいは自身がコアになって形成される)集団の大きさは長期記憶の限界によって制限されるのだ。実際に、村という単位では、日本、例えば英国でも構成員の数が150、多くて500で、これは中世から近世に至るまで大きな変動がないのがその証だ。人にとって心地良いナチュラルな集団のサイズは150前後ということになるだろうか。
さて、認知的上限である150、あるいはそれ以上の規模になると分裂の危機をはらむので、集団を維持するにはいろいろと工夫がいる。規則などで「縛る」やり方もあるが、類人猿に比して人にユニークな2つの能力の一つ、ストーリーテリング、すなわち話を紡ぐ能力を利用して、共通の祖先にまつわる話であるとか共有するシンボルに関するストーリー作りで成員の一体感を醸成するという手がある。さらには、人のもう一つのユニークな脳の働きから生まれた宗教の役割も大きい。それはアニミズムに代表される自然宗教ではなく、教義を持った一神教である。人間が大規模な集団生活をするようになったのは、農耕・牧畜が始まった1万2000年から5000年までの間で、このころに都市が生まれた。また、社会生活をより円滑にするために文字が発明され、人々の絆をより強固にするための「仕組み」として『この世界を創造した全知全能の唯一神に帰依して、その教えに従属することが人間の責務であり、天国に至る唯一の道である』との教義を持つ一神教も誕生した。都市が都市国家となり、中央集権的な領域国家が生まれた。定住して都市を形成するときとほぼ同じタイミングで教義宗教あるいは創唱宗教(啓示宗教)も誕生したのだ。自然宗教は人知を超えたもの(自然)との一体化を目指すが、創唱宗教は人知を超えた絶対的な存在に従うことを求めるのである。人知を超えた存在は人々の「目に見えない」し、そもそも全能の神は些細な人事にはかかわらないので、神と交信できる「代理人」が必要となる。結果的に集団の成員は代理人(預言者)あるいは代理人が率いる組織に従うわけである。人々を権威の前に集わせ、権威に従わせる、集団の維持にこれ以上の「仕組み」はないだろう。一方で、「宗教は社会結合の根源であるだけでなく、宗教が人々に共通の価値観や規範を提供することで、社会秩序を維持する役割を果たし、さらには道徳、知識、芸術など、人間の文化の諸側面の起源になった」(デュルケーム)とも言える。私自身は曹洞宗寺院の檀家であり、毎年正月には近所の神社に詣で、二礼二拍一礼の参拝を行った後に破魔矢を頂く、ダンバー教授も驚きの自然宗教と創唱宗教を自由に行き来する日本人の一人である。
さて、ダンバー教授の別な著書(Friends 邦訳『なぜ私たちは友だちをつくるのか』))によると、友人がどのくらいいるか、地域のコミュニティ活動にどれだけ関わっているかが健康維持にポジティブな影響がある。経験的にも頷けるが、これはかなりの数の医療と健康に関する研究データに裏付けられた結論だ。健康(特に心臓関係)に影響を与える様々な要因の中で、友人は喫煙に次ぐ2位である。様々な要因とはマイナスもプラスも含めてのもので、友人はプラスの要因の1位、喫煙がマイナス要因の1位ということだ。さらには、寿命にも影響が大きいという。ここで注意が必要なのは、友人も数ばかり多くてもだめで、「最も親しい関係の友」(5名程度)が重要だということなのだ。このくらい親しい友人であれば精神的のみならず物理的に困難に陥ったときに助けにもなる。
ダンバー教授は友人関係を作り維持するための重要な会話のテーマも取り上げ、知恵の七柱をもじって友情の七柱(Seven Pillars of Friendship)と名付けた。その7つとは、重要度の順にあげると、「公共道徳(Morals)」、「宗教(Religion)」、「音楽(Music)」、「政治(Politics)」が4本柱で、重要度はだいぶ下がるが、「現在の居住エリア(Current location)」、「出生地(Natal area)」、「国・民族(Ethnicity)」となる。日本とはだいぶ違うようだ。日本が特殊なのだろうか。しかし、重要なのは、これらは違いというより似通った者同士を集め、絆を強めるテーマであることだ。道徳、宗教、政治は個人の世界観に係るもので、これが全く違う人間の間には信頼関係も成立しないだろう。人は同じ考え、傾向を持った人々の間にいて安心感を得、快適に過ごせるのだ。また、音楽の重要性が際立つ。音楽を聴き、音楽にあわせて体を動かすなどすると、快楽物質であるドーパミンが分泌され、物理的グルーミングと同じようにポジティブな影響(幸福感、やる気喚起)があるらしい。
脳の発達により人のコミュニケーション能力は飛躍的に高まり、通信技術の進歩にも助けられ、会ったことがない人々、遠く離れた人々との意思疎通も可能になった。それでも、人間関係は親しいもの同士で構成された小集団をコアに形成されるのだ(家族以外)。逆に言えば、小集団であれば互いの意思疎通も容易で、集団としてまとまる可能性が高いということだ。顔の見えない不特定多数と繋がりを持とうとするとむしろ不安感を増大させる。組織というとどうしても枠組みから考え、結果的に大きくとらえてしまいがちだが、個人としてやらねばならないことは、5人、10人と自分の周辺の人々との関係を第一に考え、絆を強めていく努力をすることではないか。それは地域でも地域にかかわりがないコミュニティにも言えることではないだろうか。ただし、集団は開かれたものであるべきで、親しいもの同士の閉じた関係で終わってはならないだろう。そのために必要なのは社会的グルーミングである。大脳皮質の発達したヒトらしいグルーミングとはコミュニケーションである。情報の発信、受信、これに伴う意見の交換、これらを常に怠らないことが肝心だと考えている。この小文はその一つの試みと受け取っていただけたら幸いである。