コミュニティについて思うこと
私が現在所属する(社)シニア社会学会にはいくつかの研究会があり、その一つ濱口晴彦早大名誉教授が主宰する「シニア社会のリテラシー」では月一回の集まりで様々な社会的トピックについて議論しているが、一貫しているのは「コミュニティ」に対する関心度の高さで、2016年には『コミュニティ学のススメ』(濱口晴彦編 日本地域社会研究所)を上梓している。
コミュニティは一言で語れるような代物ではなく、私もいろいろな切り口を試してみたが、自分自身のコミュニティ体験が曖昧なため、説得力がないし、論旨も一貫しない。
そこで、自分のコミュニティ体験を振り返ってみたのだ。
濱口先生からは「コミュニティ論を生活感覚のレベルで受け止め、論点整理を提示した報告であった。いわゆる共同体論の痕跡を引きずらず、庶民的解釈が可能な立場でコミュニティを論ずると、こういう論理展開が可能ですという見本の展示であったと受け止めている。」との意見をいただいた。
「共同体論」の古典と言えば、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトで、テンニースの名著がある。コミュニティを考えるうえでぜひ読んでおかなくてはと思い、確か岩波文庫で出ていたなと探したら、古本しかない。絶版なのだ。それで、英語訳(Community and Society)を手に入れた。もっと早く読むべきであった。
「コミュニティ」について思うこと
私について言えば、血縁はともかく地縁を基盤とした共同体、すなわちコミュニティにはさほど縁がないと思っていた。祖父が故郷の福島県を後にして東京に出てきたのはざっと100年以上前だ。それから東京内をあちこち、東京から移り住んだ横浜でも数か所移動して、小学生として過ごした場所以外では地域の人と積極的に交流した記憶がない。今の場所に居住してから20年以上になるが、その間10年くらいは上海と横浜を行ったり来たりで、留守にしていることが多かった。一昨年と昨年マンションの理事を務めたが、居住者としての責任を果たしただけで、他の居住者と親睦を深めるほどのことはなかった。血縁について言えば、先々月の叔母の葬儀の参列者は10数名で、焼香がすぐ終わってしまった。今月行った兄の七回忌の出席者は4名であった。私が特殊なのだろうか。そんなことはないだろう。先祖が地方出身の大都会居住者の状況は似たり寄ったりではないか。
思えば、小学生時代、夏休みになると父親に引っ張られるように福島の田舎(福島県石川郡川東村大字小作田 現在は須賀川市)に連れて行かれ、こんな何もないところで生きて行けるかとネガティブな感情が先に立ち、食事は野菜ばかり(村にたった一軒の肉屋では、冷蔵設備がお粗末で、赤っぽい肉がだらしなくガラスケースの中に並べられていた)、夜になるとあたりは真っ暗、月明かりとはこんなに明るいものかと驚き、空気がきれいだったころの東京でも滅多に見ない流れ星を数度目撃した。「東京人」と呼ばれ、子供たちが入れ代わり立ち代わり遊びの誘いに来るのが煩わしく、トーキョーに一日も早く帰りたいと思ったが、田舎の家の前を流れる川の音や奇妙な鳥や虫の声が次第に心地よくなり、家の前、道路と川を挟んで青々した田んぼの間を真直ぐに白い道が伸びて小学校に繋がる景色もなかなかいいじゃないかと思い始めるころ、そろそろ風が冷たくなり始める時分に父親が迎えに来た。田舎の自然だけではなく、最初は煩わしかった人との交流も同じくらい記憶に残っていた。阿武隈川で小魚をつかまえ、田圃で蛙取りをしたりして、最後は村の盆踊りに一緒に行くまでとなり、山の中腹にある神社まで真っ暗な道を懐中電灯で照らしながら一緒に歩いたものだ。
田舎でのありさまは夏の短い出来事なのでより印象に残るが、考えてみれば、他にこうした人との触れ合いが全くなかったわけではない。小学生時代も近所には同じ学校に通う子供たちが大勢いたし、戸建て住宅であり、小さな庭(イチジクやビワの木があった)を隔てて隣接する家々と交流があり、特に家中開けっぱなしの夏などはいつも家族以外の人々の気配を感じながら暮らしていた。秋の祭りには近所の子供らと揃いの法被を着て参加し、氷川神社で金魚すくいをやり、屋台で綿菓子を食った。家から歩いて200mくらい先の通りに面して子供にとってのサードプレイス、駄菓子屋があり、小銭を握りしめた小学生がたむろしていた。昭和36年頃だったか台風で神田川が溢れて床下浸水になった時は、炊き出しの握り飯をもらった。子供の時分は自分がコミュニティにいるという自覚はなかったが、確かにいたのだ。
ここで考えたいのは子供にとってコミュニティ(地域を基盤とする)とは何かということだ。子供はコミュニティの主体ではないかもしれないが、コミュニティにとって欠かすことができない重要な要素だ。子供がいないコミュニティなど考えもつかない。子供にとって家族は大切だが、家族は閉ざされた特殊な人間関係で成り立っている。家族から一歩外に踏み出さなければ社会化(社会の価値、規範を身に付けること)ができない。その役割はコミュニティが負うものだ。それは学校の役割だという意見もあるだろうが、学校は集団生活、集団行動の学習の場であり、さらには、子供の小さな頭に流れ作業的に知識を詰め込むための工場のようなものだ(あくまで私の経験に基づく)。
さらに、コミュニティには、家族以外の人の気配を感じさせる、人の視線を感じさせる、すなわち他者を意識させるという重要な役割があるのではないか。他人を意識しなければ自我も芽生えないだろう。自分の身近な人間たちに共感するのは自然なことであり、たやすいことだ。しかし、それ以上に、共感の対象の範囲が身近な人々を超えて見ず知らずの他人まで広がるかが問題で、その契機を与えるのがコミュニティでの生活ではないか。また、ニュースで知ったのだが、子供はただ見られているだけで安心するらしい。平穏な気分になるようだ。しかも、これは子供に限らず親も誰かに見守られていると感じると安心するとのこと。監視ではなく、さりげない見守りである。人は誰かに見ていて欲しいのだ。コミュニティならそれが自然に行える。
先日、NHKの動物番組(NHKと言えば動物番組)でたまたま観たのだが、オーストラリアに棲むカラスに似た鳥、カササギフエガラス(マグパイ)は知能が高く(マグパイアタックと言われ凶暴でも有名)、群れで生活するのだが、成長が遅く、成鳥に近くなっても周囲の大人鳥の援けが要ると言う。親以外からも餌をもらっている。また、年長の鳥と取っ組み合いなどして力関係を学んでいる。一般的に集団で生活する動物はじっくりと時間をかけて仲間と交流し集団の掟を学ぶ必要があるらしい。親と子以外に他の鳥と交流しながら暮らすのだから、これは単に群れているのではなく、コミュニティを作っているのである。人間の社会はさらに複雑だから、この社会で生き要る知恵を身に付けるにはそれこそコミュニティの様々な人々の力が要るに違いない。
この頃、電車の優先席に躊躇なくドカッと座る、あるいは、普通の席でも足を伸ばして座る若者(男が多い)を見かけるのが珍しくない。その席を老人や障害のある人々が必要としているかもしれないし、足を伸ばしていれば揺れる電車の中をおぼつかなく歩く人がぶつかってしまうかもしれない。その時は席を立つか、足を引っ込めればいいと考えているのだろう。本来はそうではないだろう。老人や具合の悪い人が座るかもしれない、電車の中を人が歩くかもしれない、そういう人々が存在すると想定して席を空けておく、足を引っ込めてきちんと座るというのがあるべき姿勢で、それができないと言うことはそういう人々が存在するということが想像できていない、直接的、直感的に感じられる以外の他者を意識できないのではないか。親兄弟、友人以外に多くの人々が存在し、間接的にであってもそれらの人々と自分との関係を考える力、すなわち、共感力(エンパシー)が育ってないのだ。
このことは、わずかな遊ぶための金と引き換えに見知らぬ他人である上野の実業家夫妻を乱暴し、おそらくは殺害まで関わっただろう20歳の容疑者2人にも言える。「自分と直接関係ない人間」には何でもできるのだ。おそらく彼らはコミュニティが成立していないか、コミュニティ不全の環境で育ったのだ。
「人間とは何か、という学問領域を越えた普遍的問いに対して、共感性の理解が不可欠である….ヒトが有する心的特性で他の生物と決定的に異なる特性は、血縁者のみならず非血縁者と共に、きわめて高度で複雑で大規模な協力的社会を構築し、見ず知らずの他者に対してさえ向社会的に振舞う点にある」(長谷川寿一・行動生態学)この人間らしさ、つまりは共感能力を養う基盤として、まず家族の範囲を超えた「向こう三軒両隣的な居場所としての近隣性」を持ったコミュニティの力が必要だと思う。コミュニティの恩恵を享受できない子供たちは居場所を求めて(誰かに見てもらえる)トー横、センター街をさまようが、そこには刹那的、一過性の関係以外何もない。それどころか、そういう子供たちを搾取しようと待ち構えている連中の視線がある。
コミュニティ不全は若年犯罪の問題に止まらない。少なくとも都会の中では向こう三軒両隣的な居場所としての近隣性」を持つコミュニティの存在感が急激に失われつつある。協働の意思を持った個人が自発的に作り上げるコミュニティないしアソシエーションは条件さえ整えば構築可能だが、「向こう三軒両隣」はそういうわけにはいかない。地方にはコミュニティはあるが(あったが)、人がいない。都会には人はいるが、コミュニティがない。地方も都会もコミュニティの問題に関してはその大本は同じである。都会では仕事が人を束縛し、その仕事の労働力として地方から人が都会に吸引される。
そして、濱口先生のおっしゃるコミュニティをめぐる「生命と生活の乖離」の問題に向き合わなくてはならない。「生命と生活の乖離」とは日常の生活の中に効率重視の資本主義の論理が入り込むことで生じるのではないか。その一つの側面として、日常の生活が仕事に侵食されるということがある。私はモーレツサラリーマンとは程遠かったが、勤務先との往復に2時間強、勤務先で過ごす時間は10時間を超えた。つまり、一日の半分は仕事関連で費やされたわけだ。生活の場で過ごすのはおそらく半分にも満たない。飲んで帰るからである。真夜中に帰って朝早く出るのが普通という時もあり、人間関係は会社関係が中心で、仕事のために生活があるようなものだった。会社ファーストである。これは倒錯である。これは私だけのことではない。勤め人は特定の場所に集まって仕事をする必要があるため、働く場と生活する場の分離が著しくなる。当然、働く時間の合間などを行うことは難しくなるわけだ。必然的に、生活する家の周りでの共同体での活動は縮小される。休日も少なく、加えて、長時間労働であれば、実質的に地域での活動は不可能になる。体はともかく心は仕事場に置いてきている。休みの日に公園で見かける子供連れの父親の姿は所在なげで、「俺はこんなところで子供の面倒見て油を売っていていいのか」と自問しているように思えた。職場は働く場所である。生活の場ではないし、その代替もできない。職場にいればそれなりの緊張を強いられるし、リラックスできない。いつの間にか職場が栖で家が仮の宿のようになっても、会社という場所は労働を売って対価をもらう場所である。それ以上でもそれ以下でもない。職場に心許せるコミュニティを求めても、会社はそれを十分に提供できないのだ。一方で、これからは、「地域などのコミュニティが個人を支える」時代になるとの考えがある。定年あるいはさらに早くICT化による在宅勤務形態がより一般化することで、会社組織にどっぷり浸かってきたサラリーマンたちがその居場所を失っていく。今までは会社が一日で最も多くの時間を費やす場所であり、人との交流の場所であり、成長(出世)の場所で、その他の場所は家庭(または会社帰りの酒場)しかなかった人々が重要な生活の精神的基盤であるものを失っていくのだ。
ここで、居住地を核とした地域コミュニティの存在がより重要になる。コミュニティの存在感が増すことで、地域に限定されない様々な活動を行うグループ(ビジネスに限定されない)への関心も高まるだろう。仕事のやり方がデジタル化することで、生活面では地域コミュニティ、グループへの帰属が必要になってくる。子供だけでなく大人にもコミュニティが必要なのだ。だからと言って、コミュニティがすぐ復活するわけではない。コミュニティをめぐる問題について考えなければ、復活の路も見えてこない。
地縁を基盤としたコミュニティが成立するためにはそこに人がいなければならないが、もちろん、いるだけではだめで、何らかの目的をもって動く人がいなければならない。子供のころにはよく見えていなかったが、周囲には地域、コミュニティのために活動する大人がいたはずである。いなければ、祭りも災害の時の炊き出しもできなかったに違いない。そうしたコミュニティやグループの活動を支える人々は基本的には無報酬(経費は別として)のボランティアである。今までは、「勤めを卒業した」あるいは時間的に余裕がある善意の人々の活動で賄ってきたのだ。こうした活動をする大人が減っている、あるいは新たに活動をする人がいないのが多くのコミュニティが抱える問題だろう(それ以上に少子化が問題かもしれない)。ここでのネックは「報酬の有無」ではなく、社会的に重要だと思われていても、「無報酬」の活動は「仕事ではない」と見做されていることではないか。「労働を売る」そして「報酬があってはじめて仕事と言える」つまり、「金をもらわなければ仕事ではない」との仕事観が問題なのだ。無報酬であろうがなかろうが仕事は仕事であるとのコンセンサスが形成されないと、善意の一点だけで現役世代を含む多くの人々のコミュニティへの参加を促すのは難しいだろう。
ここで唐突なようだが、以前、AIの関連で議論したベーシックインカムについて考えたい。ベーシックインカムそのもの是非を論じるほどの知識も時間もないので、ここではベーシックインカムがもたらすもの、コミュニティの復活につながる可能性について取り上げる。ここで取り上げるベーシックインカムは、限定かつ特定条件に当てはまる人だけに給付する、今までの社会保障と変わらないものではなく、無条件で国民に一定の金額を給付するものを言い、ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)と称される。「時は金なり」との身もふたもない言葉がまだ生きている日本ではあまり話題にならないが、海外では欧米を中心に長年にわたって提唱、議論されてきた新たな社会制度であり、すでに一部実施している国もある。ここから以降は以前書いた(「『人工知能と経済の未来』を読んで」)からの引用である。
端的に言うと、UBIによって生じるメリットは、「UBIを受給されることで環境に負荷を与える仕事の義務を負う必要がなくなる。」ことであり、「人々がその労働力を売り、常に生産的であることを要求されることが消費力を増大させることによって償われる」ネガティブなダイナミズムを解消し、「仕事と消費の連鎖を断ち切る」ことで、これからの社会にとってクリーンエネルギー、AIと同じくらい重要なものとみなす人々もいる。さらに、「UBIは、すべての人々に正当な生活水準を保証することで、仕事に対する衝動を除去することになるだろう。そして、報酬をもらうか物を売るかでさらなる豊かさを追求するか、余暇を使ってやりたいことを行うか(UBIが支給されるからと言って、仕事をしなくてよいわけではない)、それはそれぞれの人に任せられるだろう。人は働くことを強いられるべきでなく、少なくとも有用な、あるいは他者にとって役に立つことをすべきであるとの仮定は妥当なものなのだ。」(D.グレーバー)UBIに批判的な意見の一つに、何の対価もなしに金を配るのはよくないというものがあるが、もちろん報酬のある仕事もするべきなのだ。ただ、従来の「給料をもらう仕事」という狭い仕事観にとらわれなければ、社会に貢献できる仕事はすでにたくさんある。例えば、育児、ボランティア活動、自然保護への取り組みなどはすべて社会にとってプラスである。しかし、『給料をもらう仕事』の方により重きが置かれ、給料の出ない社会貢献などの大事な仕事は後回されてしまう。
「結局、ベーシックインカムが企図していることは暮らしを仕事から引き離すこと」で、日常の生活が仕事に侵食されることが少なくなる可能性大である。同じくらい重要なのは、「仕事」としてコミュニティの様々な活動に参加する人が多くなることだ。片手間や 暇なときにやることと仕事(基本的に無償だが)として取り組むのでは、本人の気持ちもそうだが、周囲の目も違ってくるだろう。さらに良いことは、実りの多い余暇活動を楽しむ欲求とその可能性を生じさせることだ。このことによって地域以外のさまざまなコミュニティに参加する余裕も生まれるだろうし、人のつながりがさらに多様化して豊かになるだろう。「金を稼ぐのが仕事」と一様にみなされることがなければ、教育を経済や経営の視点で語る人的資本論に毒された歪んだ教育も正されるだろう(高い教育=社会的な収入で教育は自己投資、投資は自分の責任で担うという考えが苛烈な奨学金取り立てにつながり、金に直結しない分野が軽視されることになった)。金儲けにはつながらないかもしれないが、芸術、文化の分野での研究が促進されるだろう。さらに、これらのことがコミュニティをさらに豊かにするだろう。
ベーシックインカムすなわちUBIの実現によってすぐコミュニティに人が戻り、復活するだろうか。ことはそう単純ではないだろう。少子高齢化の問題もあるし、現代社会では、コミュニティに生活の基盤がない人が多いことも問題だ。しかし、半ば脅迫的な仕事の考えから解放され己の生活を見直す余裕が生まれることが大事なのだ。「こころ定まれば、ところ定まる」である。
「こころ定まれば、ところ定まる」ことによって、私が読んでその通りだと感心した福沢諭吉が人生の終わりに成し遂げてみたいと語ったこと、「全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにする事と、仏法にても耶蘇教にても孰れにても宜しい、之を引き立てて多数の民心を和らげるようにする事と、大に金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事」、福翁自伝を締めくくるこの言葉がこの日本において実現するのではないかと思っている。