コロンビア大学のジャズの授業‥‥ザ・ニューヨーカーより 4

 ホイットニー・バリエットは主にジャズ批評で活躍した人で、その文章は主にザ・ニューヨーカー誌上で発表された。今回その一部を抜粋する文章は1954年12月25日のニューヨーカー誌に掲載されたもので、1950年代初頭のジャズとジャズマンの姿を伝えてくれる。

「ある授業に参加するためにコロンビア大学までやってきた。この授業は、コロンビアの教養学部(Institute of Arts and Science)がスポンサーとなって行われる「ジャズの冒険」という教育コースの一環で、ジャズとその文化の研究者であるシドニー・グロス氏によって行われている。氏の授業が行われるのはジャーナリズム大学院の建物の一室で、授業が午後7時半から始まると知っていたので、我々はその数分前にそこへ赴いた。その部屋には壁三面に黒板があり、小型のグランドピアノ、レコードプレイヤーが備えられ、そして、グロス氏がいた。氏は黒い髪で、炯炯とした薄い緑色の瞳をしたハンサムな人物だった。彼にざっくりとした経歴をお願いしたところ、ロンドン生まれで39歳だと答えた。12歳でトミー・ドーシーのPraying the Bluesの録音を聴いてジャズを学び始め、ヴァイオリンを2年間学んでからウクレレに替え、さらに、ギターに替えた、1939年にミュジシャンとして英国空軍に入隊、「バトル・オブ・ブリテンの間は、ジャズとホットなリズムでパイロットを空に送り出し」、戦後には、ロンドンのアデルフィー劇場で週ごとにジャズコンサートを開催した」そうだ。そこでの売り上げはロンドンフィルより良かった。この国に来たのは5年前で、それ以来、ラジオやレコーディングなどに関わってきた。

 グロス氏によれば、彼の授業はコロンビアが提供する最初のもので、様々な年齢と職業の生徒が68名登録しており、中には、不動産業、歯医者、女性の麻酔士などもいるそうだ。授業は10週間のみで、履修しても単位の付与はないが、いずれ米国の大学はすべて、歴史、フランス語などと同じくジャズにも真剣に向かい合うようになるはずだとグロス氏は自信を持っている。
 氏の授業の特色はゲストにあり、ゲストが学生の前で演奏を行うのだ。「今日の目玉はドラマーのルイ・ベルソンです。彼のためにドラムを丸ごと1セット借りましたので、失礼して、これからそれを取りにいきます。」と言って、氏は勢いよく教室を出て、ドラムを取りに行った。氏が戻るころには、教室は学生で満員となった。グロス氏は、学生たちにあいさつした後、学生の一人であるワルダ・クレイなる人が寄せたジャズに関する小論を大声で読み上げた。読み上げられた内容には、「ジャズは第六感である」とか「ジャズにはどうしようもない魅力的な力がある」とか「ジャズは生き、愛し、耳を傾ける価値がある」などの言葉があった。読み上げが終わってすぐ教室に拍手が鳴り響き、グロス氏はワルダ・グレイ嬢に起立を求めた。ブロンドの髪を後ろに束ねた女性が立ち上がり、グロス氏に一礼して、再び席に着いた。

 グロス氏はその日のトピックはビバップであると告げた。さらに、「人生が進展する中で、突然遠くにあるものに手を伸ばそうとすることがしばしばあります。これこそ1941年にジャズに起こったことで、その時にビバップが創造されたのです。今日のゲストの一人は、ダウンビート誌のニューヨーク在住のエディター、ナット・ヘントフさんです。ナット、ここに来て、ちょっと話してくれませんか。」とグロス氏は続けた。
 ヘントフ氏は背が高く、シャイな感じの人で、部屋の正面に歩み寄り、グロス氏と握手を交わした。「ナット、ジャズがどのような方向に向かっているか話してくれますか。」とグロス氏は言った。
 「ジャズは同時にいくつもの方向に進んでいる。」とヘントフ氏は述べたが、非難がましい口調ではまったくなかった。「思うに、進んでいる方向の一つがさらなるフォームの探求だ。」
 一人の学生が挙手をして、質問した。「ヘントフさん、ウエストコーストの今の動きがシカゴジャズのように重要なものになると思いますか。」
 「ウエストコースト運動なるものは存在しない。」 ヘントフ氏は答えた。「他のジャズと何ら変わることはないのだ。」
 「ターク・マーフィーと彼のサンフランシスコジャズはどうですか。」とグロス氏が質問した。
 「ターク・マーフィーのような人々がやっていることは、ジェリー・ロール・モートンたちのレコードをレコードのノイズレベルに至るまでコピーすることなんだ。」ヘントフ氏は答えた。「復興論者たちに起こっていることは、元々自分がいたはずもない場所に対してホームシックになるようなものだ。」

もう一人のゲスト、セロニアス・モンクがピアニスト、作曲家、そして最初期のビバップ推進者として紹介された。グロス氏に催促されて、モンク氏はピアノの前に座り、コードをいくつか奏でた。

「今弾いたのは古いタイプのコードだ。」と彼は言った。「これが新しいタイプのコード。Gセブンスだ。」 モンク氏は鍵盤を小気味よく叩いた。そして、「今、我々が使っている新しいタイプのコードの音はまさにこれなんだ。」と言った。「これからJust You Just meを1コーラス弾くので、気に入るかどうか。」

 モンク氏が弾き終わると、学生たちは熱狂的に拍手した。グロス氏は新しいジャズスタイルのさらなるゲストを矢継ぎ早に紹介した。オスカー・ぺティフォードがベースを抱えて前に出てきた。ジミー・ハミルトンはクラリネットを持って、そして、名前が呼ばれるやいなや、偉大なるルイ・ベルソンが教室に入ってきて、オーバーコートを脱ぎながら借りたドラムセットの後ろにまるで銀行員のような風情で腰を下ろした。
 グロス氏は、ベルソン、モンク、ぺティフォードそしてハミルトンがJust You Just Meを演奏すること、さらにもう一人のゲスト、ラングストン・ヒューズが彼の作品の中からジャズ一般、そして特にビバップの誕生についての文章を朗読すると告げた。
 ハミルトンはモンクに「Cのコードをくれないか。」と大声で伝えた。モンクはCのコードを叩き、演奏がスタートした。演奏は自由自在に繰り広げられ、その音響はどんどん大きくなり、細長い教室中に響き渡った。
 そして、グロス先生は、デスクの前に腰かけ、満面の笑みを浮かべていた。」

(ホイットニー・バリエット ザ・ニューヨーカー 1954年)

 どうですか。大学でジャズに関する授業が珍しい時代だからと言って、モンク、ぺティフォード、ハミルトン、ベルソンが来て、演奏するのですよ。おまけに、ナット・ヘントフが来て、さらに、ラングストン・ヒューズが自作の詩を朗読するなんて、実に贅沢きわまる話だ。50年代でニューヨークだから可能だった。しかし、モンクではなく、ルイ・ベルソンが目玉だとは、やはり50年代初めのころの話であるなとも思う。また、モンクが来ても、ラングストン・ヒューズが来ても、大げさな言葉一つなく淡々と述べているバリエットの文章もなかなか味わい深い。彼は形容詞をほとんど使わないが、音楽(文芸でも)を評することを生業とする人々にとって重要なことだと思う。